『 あたたかなゆるし 』

2016年8月14日(日)
出エジプト34:4-9、ヨハネ福音書8:3-11

土の上でスイカを食べると思い出す、遠い幼い頃の記憶がある。夏休み、祖父の家に遊びに行っていた時のこと。牧師であった祖父は、寡黙で厳しい人だった。その時も何か悪さをしてこっぴどく叱られた。辛い時間が続いた後、祖父に「もうあんなことしたらあかんで!わかったか!」と厳しく言われ、神妙な面持ちで「うん」とうなずくと、祖父は言った。「ほなこっちきて、スイカ食べ。」ゆるされた安堵感と共に、縁側の土の上で味わったスイカの甘さが忘れられない。「それから後は心入れ替えて良い子になりました…」とすんなり進んだわけではない。その後も何度も過ちを犯し、しかしその都度ゆるされて、少しずつ育てられていった。そのゆるしを思い返す時、なぜかあの「すいかの味」が思い出される。

街角の軒下に“死後、裁きにあう(聖書)”などと書かれた看板を見ると、心が辛くなる。確かに聖書には神の厳しい裁きの言葉も書かれている。そのような言葉を引いて人を正そうとするやり方は、どの宗教にも昔からあった。しかし人を本当に根底から作り変え新しくしてくれるのは、厳しい裁きをちらつかせての「おどし」ではなく、むしろ「ゆるされた体験」ではないだろうか。

姦通の罪で捕らえられた女性がイエスのもとに引かれてきた。ファリサイ派は「律法に従って石打ちの刑に処すべきか、お前はどう思う?」とイエスに迫る。いろいろと問題を感じる場面だ。「姦通の罪」ならば相手の男がいるはず。しかしファリサイ派はそこには関心がない。イエスを陥れるのが目的だからだ。イエスを貶めようとしてこの女性を利用しているところに、彼らの陰湿さがうかがえる。

イエスは「あなたがたの中で罪なき者がまず石を投げよ」と言われた。そう言われて「じゃあ…」と石を投げられる人はいない。誰もどこかしらに疚しさを抱えているのだ。人々はひとり、またひとりとその場を立ち去った。誰もいなくなった後イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない(口語訳では「罰しない」)」。イエスはこの女性にゆるしの宣告をなされたのだ。

しかしそれは、何でもかんでもゆるしてやるよ、という甘々の「放任宣言」ではない。「行きなさい、これからはもう罪を犯してはならない。」そのような諭しの言葉を伴った「ゆるし」なのである。神は「ムチ」を振るわれる方ではない。しかし「アメ」を与えられるのでもない。「スイカの味」のする、ゆるしを与えて下さるのだ。

十戒の刻まれた石板の再授与にあたって、主なる神はモーセに言われた。「(私は)憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す。しかし罰すべき者を罰せずにはおかず、父祖の罪を、子、孫に三代、四代までも問う者。」本来厳しく罪を指摘し、裁きを下される公正な神が、けれどもあなたをゆるして下さる… だからこそそのゆるしは、あたたかなものとして迫ってくる。そして人を内側から作り変えてくれるのだ。

イエスは私たちに神さまの「あたたかなゆるし」を宣言された。私たちはその神のゆるしを、甘えた心で受けとめないようにしたい。また「自分がゆるされている」ということを深く感謝して受けとめ、私たちも互いに人を裁かず、ゆるし合える者でありたい。