『 悩み、さまよう、神の民 』

出エジプト19:1~6,ペトロ2:1~10(5月18日)

「クリスチャンらしく」という言葉はあまり使われなくなったが、「クリスチャンのくせに」という言葉は今もしばしば耳にする。「クリスチャンのくせに人の悪口を言う」「クリスチャンのくせにつまらないことですぐ怒る」「クリスチャンのくせに暴力をふるう」…そこには「クリスチャンとはこうあるべきだ」というイメージがあるのだろう。「クリスチャンは愛と慈愛に満ちた人だ」「穏やかで平和を求める人だ」そうであるべきだ、と。

確かに悪口を言わない、すぐに怒らない、暴力をふるわない、ということは大切なことだ。けれども現実には、クリスチャンであっても悪口を言ってしまうし、怒るときもあるし、自分の中の暴力性を否定できる人は稀だろう。「それでいい」とは言わないが、そこから始めるしかない。それがほとんどのクリスチャンの現実ではないか。

「だから悪意、偽り、偽善、ねたみ、悪口を捨て去りなさい」とペトロは語る。「あなたがたは選ばれた民、聖なる国民、神のものとなった民です」とも。あなたがたはそんな人間になりなさい、そうなるべきだ!…ということなのだろうか。

「神の民」。それは旧約聖書では「選ばれた民・イスラエル」を指して用いられる言葉であった。それが新約聖書では民族的概念から離れ、イエス・キリストを信じるクリスチャンを表す言葉として移り変わっていく。悪意・偽り・偽善・ねたみ・悪口を離れた「聖人」。それが「神の民」だとペトロは言いたいのだろうか。

それが目指すべき目標であり、理想の姿だと言われれば、小さな声で「アーメン(「わたしも同じ思いです」の意)」とつぶやくだろう。しかしそうなろうとしてもなり切れない、そんな自分がいる。それを知ること、認めることが大切なのだと思う。

神さまから「神の民」として選ばれたイスラエル。しかしその歩みは決して従順で立派な信仰者の姿ではなかった。むしろ何度も迷い、躓き、モーセを困らせた歩みであった。その罪の姿を旧約聖書は赤裸々に記している。自分たちの民族の「罪の姿」であっても包み隠さず後代に残してゆく。そこに聖書の偉大さがある。

「罪の姿」ということではペトロも同じだ。かつて自らの弱さゆえにイエスを裏切ったペトロ。そんな彼が、自分の過去を「なかったこと」のようにして、あのように語るのであれば、「何を偉そうに…」と言うしかない。しかし私はそうは思わない。むしろかつての自分の弱さを十分に知り、十分に認めつつ、その自分を赦し、受け入れて下さる神の愛・キリストの愛を知る。そんな中から語られた言葉だと思いたい。

わたしたちは「悩み、さまよう、神の民」である。だから毎週礼拝に集い、祈りつつ共に歩む。そこから始めるしかないのだ。

2014-05-18 | Posted in | Comments Closed