『 来たるべき方 』

2016年12月11日(日)
士師記13:2-14,マタイ11:2-19

クリスマスが近づくと、ページェントなどでマリアへの受胎告知のシーンが演じられる。神からのお告げを受けて不思議な形で生まれる赤ちゃん。それが人々が待ち焦がれていた「来たるべき方」、救い主キリストである ― そんなメッセージが届けられる。

しかし聖書には、同じように神のお告げを受けて不思議な形で生まれる幼子の物語は他にもいくつかある。イエスだけが特別な存在というわけではない。たとえばアブラハムの息子・イサク。長年子どもが授からず年老いてしまった妻のサラが、お告げを受けて息子イサクをもうける。そしてそこからイスラエル民族が発展していくのである。

今日はそのような「お告げによって身ごもり不思議な形で生まれた」3人の人物を通して、「来るべき方」とはどんな存在なのか考えてみたい。

ひとり目はサムソン。士師記13-16章に登場する、古代イスラエルのリーダーである。マノアの妻は長く赴任が続いていたが、その彼女に男の子の誕生が告げられ、生まれたサムソンは「ナジル人」として聖別され、成長するとペリシテ人の手から人々を守る人となっていった。

サムソンの資質をひと言でまとめると、それは「力」であったと言えよう。彼は大変な怪力の持ち主で、それによりイスラエルを守りもしたが、最後は破滅的で壮絶な最期を遂げてゆく。「力」に頼ろうとする者は、最後にはその力によって滅びを招き入れることもあるということか。

二人目はバプテスマのヨハネ。神殿の祭司ザカリアの妻・エリサベトは、やはり不妊のまま年老いていた。しかし彼女に幼子の懐妊が告げられ、子どもを生む。ヨハネと名付けられたこの子どもは、成長して預言者となり、イエス・キリストの活動の準備をしていった。

ヨハネの特質を表せば「神の正義と裁き」ということになるであろう。厳しく人の罪を問い、悔い改めを迫る… それがヨハネの宣教であった。しかしヨハネは「自分はメシヤではない」と自覚していた。「わたしより後に来る方は、聖霊と火でバプテスマを授け、麦の殻(=罪人)を消えない火で焼き払われる」とヨハネは告げた。ヨハネにとっての「来るべき方」、それは自分よりも厳しい「裁き人」というイメージであったのだ。

3人目はイエスである。今日の箇所は、成長したイエスに対してヨハネが獄中から問いを発している場面だ。「来るべき方はあなたなのですか。それとも他に誰かを待つべきでしょうか。」。これは「あなたは私が待ち望んでいる世の裁き人としての救い主なのですか?」という問いだ。

イエスは答える。「病人や身体の不自由な人は癒され、貧しい者は福音を聞かされている」。イエスはヨハネにもひけを取らない正義の人だった。しかしイエスのまなざしはその正義に反する人にまず向けられたではなく、むしろ社会の枠組みからこぼれ落ちてしまう人に真っ先に向けられた。イエスは世の裁き人としてではなく、癒し人・慰め主として世に来られた、ということ。それがこのイエスの答えの意味だと思う。

「力」に頼る者はその「力」によって、敵も自分も滅ぼしてしまう可能性がある。「正義」に固く立つ人は、その正しさゆえに人を裁き追いつめてしまうこともある。イエスは力に頼らず、正しさのみを振りかざすのでなく、そのようなものでは拾い切れない人々の悩み苦しむ心に、神の愛を届け慰めと癒しを与える「来るべき方」なのだ。

2016-12-11 | Posted in | Comments Closed