『 もう宝物はいらない 』
2020年12月27日(日)
マタイ福音書2:1-12

「コロナ禍」という言葉を使わないようにしている。「禍」とは「わざわい」である。確かにコロナウイルスは人間にとってやっかいな存在だ。しかし毒ヘビや毒キノコと同じように、被造物である自然の一部である。近寄り過ぎないように気を付けながらも、撲滅を目指すのではなく、共存していくことが肝要だと思う。「コロナ禍」とは人間からの勝手な決めつけの言葉ではないか…そんな思いから「コロナ状況」という言い方を用いるようにしている。

コロナウイルスは、際限なく拡大するかに見えた人間の経済活動の流れを止めてしまった。感染による多くの死者、商業活動の縮小により、人類は大きなダメージを受けた。しかし一方で、大気汚染は無くなり、汚れた川の水はきれいに透き通っていった。

「新型コロナウイルスから人類への手紙」という文章がある。コロナとは、強欲により際限なく経済活動を拡大する人類に対して、立ち止まって考えさせるためにやってきたという文章だ。架空の文章である。しかしその問いかけているものは鋭く、重い。

今日は三人の博士の物語である。いろいろなポイントがあるが、今日は彼らが幼な子イエスに出会い、宝物(黄金・乳香・没薬)をイエスに献げた、という点に注目したい。いずれも高価な宝物。東の国から旅の途上にある彼らにとって、それは大切な財産でもあっただろう。

富を持つことは、人の心を安定・安心させる。しかし別の見方をすれば、それは人の心を傲慢なものにしてしまう。金の力で何でもできるかのように錯覚してしまうのだ。さらに富を持つことは争いの火種にもなる。富に頼る生き方は、そのようなリスクと隣り合わせなのだ。

イエス・キリストの元に集まった人たちの多くは貧しい庶民であった。取るに足らない存在と思われていた彼らに、イエスは「あなたはかけがえのない存在だ」と語られた。イエスの元で彼らは、富に頼らない生き方があること、愛を何よりも大切にすることこそ豊かな人生であることを知り、救いを得た。イエスに出会うことによって、彼らは変えられたのだ。

博士たちは幼な子イエスに出会った。そしてそれまで大切に持っていた宝物をイエスに献げた。頼りにしていた富を手放したのだ。彼らはヘロデのところに戻らず、「別の道を通って」帰っていった。それはイエスに出会って生き方が変えられたことを象徴しているのではないか。「あなたに出会えたから、もう宝物はいらない、頼らない」と。

現代社会に生きるほとんどの人にとってお金は欠かせないものである。「お金なんかどうでもいい、愛さえあればいい」などという青臭い理想論を語りたいのではない。しかし富に頼る心、富に執着する心というのは人を惑わしてしまう…そのことを忘れないようにしたい。

コロナ状況が克服された時、私たちはどこに向かうのだろうか。相変わらずの拡大路線、環境利用・環境破壊の道に戻ってしまうのだろうか?私たちには別の道が示されている。「もう宝物はいらない」と言える、別の道だ。イエスによって示された「愛」を何よりも大切にする生き方こそ、人類にとって、そしてこの地球という星にとって、本当の豊かさへと至る道なのだ。

2020-12-27 | Posted in | Comments Closed