『 神の掟、イエスの掟 』

2015年5月3日
申命記7:6-11、ヨハネ福音書15:12-17

「日本は法治国家だから、粛々と作業を進めるだけだ。」沖縄・辺野古の新基地建設を、地元の反対があっても断行する現在の政府の言い分だ。「法治国家」とはよく言ったものだとあきれる。最高法規である日本国憲法を解釈によって骨抜きにしているのが、他ならぬ現在の政府の人たちではないか。「法治国家」ならぬ、大切なものを置き去りにした「放置国家」なのではないだろうか。

そもそも「法」とは何なのだろう。私たちはなぜ「法や掟」といったものを持つようになったのだろう?人間は古来より法や掟を定め、それに従う形で共同生活の秩序を整えてきた。無人島の独り暮らしに掟はいらない。人が共に生きる歩みの中で、それらのものは必要とされてゆく。ルソーやホッブスによれば、すべての人間が恣意的に暮らしていたのでは「万人の万人に対する闘争状態」に陥ってしまう。そこで自由権の一部を制限し、社会的な契約(法や掟)に基づいて生活することによって円滑に秩序が保たれる。(社会契約論)

しかし一旦定められた掟が未来永劫秩序を円滑に保つわけではない。掟が固定化するとその定めに反する者を告発する動きが強まり、その結果、社会は「息苦しい」ものになる。すると今度はその社会規範からの逸脱が始まる。私たちが「文化」と呼んでいるもののある割合は、この「逸脱」から生まれたものとも言えるのではないか。「掟」と「豊かな人間の暮らし」というものは、そのようにすっきりしない形でグルグル回っているものと言える。

イエスの時代にもそんな現実があった。当時の掟であった「律法」。それは選民イスラエルと神との契約に基づく重要な掟とされた。しかしイエスは時にその掟を破られた。なぜイエスは「掟破り」をされたのか?それはその定められた掟が、人々の暮らしを圧迫するものとなってしまっていたからであった。

申命記のテキストは、そもそもなぜ神がイスラエルを選び、救われたのか、その理由を示す箇所だ。「数が多かったからではなく、どの民よりも貧弱であった」。いと小さき者を救われる神。それが出発点である。イエスが掟破りをするのは、律法をふりかざす人々の圧力によっていと小さき者がないがしろにされている状況に対してであった。「安息日は人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(マルコ2:27)このイエスの言葉は、人と掟とのあるべき関係を表したものである。

そんなイエスは人々に新しい掟を示される。「互いに愛し合いなさい。それが私の掟である」(ヨハネ15:12)。イエスは、膨大な分量に膨れ上がっていた律法の掟を、「互いに愛し合う」という短いひと言にまとめられた。イエスは律法の条文を否定されたのか?そうではなく、最も中心的な事柄、即ち神髄を語られたのだと思う。神に選ばれた者として互いに愛し合い、いと小さき者を大切にして歩む。それがイエスの掟であった。

最後にひとつ。イエスの言われる「互いに愛し合う」とは、「いつもニコニコ和気あいあい…」ということばかりを表しているのではない。「いと小さき者」が軽んじられている現実には、厳しく悔い改めを迫る。そうすることによって、その人も人間としての豊かさを取り戻す…それもイエスにとっては「愛のわざ」の一つと言えるのである。

2015-05-03 | Posted in | Comments Closed