8月3日(日)
聖書: マタイによる福音書10:34-39
2014年7月1日。この日は今後の歴史の中で、大きな時代の転換点として記憶されるかも知れない。戦後日本の平和主義の源であった憲法九条が、解釈改憲によって本質的に変えられたのである。戦後一度も戦争に参加しなかった日本に、海外派兵の道が開かれた。今後徴兵制の復活も予測される中で、「あの時あなたは何をしていたのか?」と孫子の世代に問われることになるかも知れない。
この憲法解釈変更を推し進めた首相が繰り返した言葉が「積極的平和主義」。会見でも度々「平和を守るために」という言葉を使っていた。「平和を守るために」集団的自衛権が必要だ…「平和を守るために」武力の行使も必要だ… そこで言われている平和とは、いかなる平和なのだろうか?
力を持った「敵」に対して、こちらも「力」で対抗しようとする。「下手に手を出すと、そっちも痛い目に合うぞ。」いわゆる「抑止論」である。
力と力が拮抗する中で互いに何もできない状態。しかし一旦その拮抗が崩れれば、そのような「平和」がいかにもろいものかは、最近のパレスチナやウクライナの現状が顕していると言えよう。「平和を守るために」と言うならば、まず自らが争う姿勢を離れることが先決ではないか。
イエスは「平和を実現する人々は幸いである」と教えられた。「平和」とは、黙って待ち望むのではなく、実現するもの。まさに「積極的平和主義」である。しかし一方で「私が来たのは平和をもたらすためではなく、剣を投げ込むためである」とも言われた。これはどういう意味だろうか?
かつてのローマ古代史家はこう記した。「ローマ人は破壊や殺戮、略奪を『支配』と呼び、人住まぬ廃墟を作った時それを『平和』と呼ぶ」(タキトゥス)。見た目には争いはないが、それは圧倒的な軍事力で人々を支配した状態。ローマ人にとっての「平和」だということだが、それは本当の「平和」ではない。そのような偽りの「平和」に、イエスは剣を投げ込む。すなわちこれを厳しく批判されるのである。
これに対し、イエスの「平和」とはどのようなものか。創世記の創造物語で、神がこの世界を作られた時、「極めてよかった」という言葉が繰り返される。神の祝福にふさわしい世界。それがイエスの目指した「神の国」だ。
自分たちの生活の安定が、誰かの犠牲の上に成り立っているとき、自分たちの謳歌する繁栄が、多くの自然破壊の上に成り立っているとき、それは本当の「平和」ではない。神の祝福にふさわしい世界ではない。イエスの言葉は今に生きる私たちにとっても、大切な問いかけの言葉として響く。「ローマの平和」ではなく、「イエスの平和」をこそ求めよう。