『 みんな違って、みんないい 』

8月10日(日)
聖書: コリント第一12:14-26

群馬地区の平和集会で草津を訪れ、ハンセン病患者の救援活動に生涯を注いだリー宣教師の生き方に学んだ。彼女の生涯を伝える絵本に記された言葉は、『みんな神さまが作られたお友だち』。ひとりひとりの人間は神の姿に創造された。みんな同じ人間として「神のかたち」をその本質に抱いている。それが人権の思想の元となり人道的活動を生み出した根拠となったのだ。

一方で、この「みんな同じ」という考え方は、逆に人間をひとつの型にはめ息苦しくさせるものとして作用することもある。「みんな同じでなくてはならない」と個々人の行動を規制し押さえつける「同調圧力」。日本社会はその傾向が他所よりも強いと言われる。日本のコメ作り ― 水を引く日をみんなで決め、「抜け駆けを許さない」という伝統にその由来を求める見解もある。

ここで大切なもうひとつの原理、それは「みんな違う」ということだ。顔や背丈、声や表情、さらには感性や考え方… みんなそれぞれ違っている。それは悪いことではなく、豊かなことなのだ… そのように受けとめる感性。「みんな同じ」「みんな違う」その二つのメッセージの間でバランスを取りつつ歩むことが大切なのではないか。

モーセは度々自分に向かってクレームをつけてくる同朋に対して、その同胞から70人を選び自分と同じ預言者としての働きを委ねようとした。「主の民すべてが預言者となればよい」(民11:29)。民の結束が乱れ、共同体の絆が揺らぐ中で、「みんな一緒に」という方向性でのソリューションをモーセは考えたということだ。人間の集団には確かにそれが必要な時がある。

一方の第一コリント12章のパウロの言葉。こちらは「みんな違う」という現実を、互いに対立し争う理由としていたコリント教会の人々に向けて語られたものだ。ここでパウロが言っているのは端的に言えば「みんな違っていてよいのだ」ということである。「一つになろう!」と呼びかけたくなる状況の中で、違いを認め合い生かし合う関わりの大切さをパウロは語る。

パウロの理想とする方法は人をまとめる方策としては困難な道のりである。やっかいで時間も手間もかかる方法である。しかしパウロはその道を目指す。なぜなら彼はそのような関わりの大切さを、イエス・キリストから学んだからだ。

パウロはかつてファリサイ派の人間として、人をひとつの型に押し込めることに情熱を傾けていた。しかしひとりひとりの人間を尊ぶイエス・キリストとの出会い、自分の生き方がいかに過ち多いあり方であるかを知らされた。そんな彼がたどりついた地平、それが「みんな違って、みんないい」である。

わたしが両手をひろげても お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥はわたしのように 地べたを速くは走れない

わたしがからだをゆすっても きれいな音は出ないけれど
あの鳴るすずはわたしのように たくさんの歌は知らないよ

すずと小鳥とそれからわたし みんなちがって みんないい

(金子みすゞ)