2017年12月10日(日)
エレミヤ36:1-10,第2テモテ3:10-4:5
今年は宗教改革500年、聖研祈祷会では宗教改革の学びを続けてきた。ルターの宗教改革は、当時の中世カトリック教会の免罪符の用い方に関する問題提起から始まった。それまでにも同じような批判をした人はいたが、「異端」とされ、処刑・追放されてきた。強大な権力を持つ教会を批判することは、現代の感覚では想像もできないくらい大変な、まさに命がけの行為であった。
もしあなたが、自分の属する組織や団体に明らかな間違いがあると思った時、それを糺すことができるだろうか。うかつに発言して反撃されたり重責を背負わされたりするのはいやだ…そんな思いを優先させて沈黙を守ることが多くはないだろうか。それも正直な人間の振る舞いだ。しかしそのような人ばかりだったとしたら、世界から不正や理不尽なことはなくならないだろう。
エレミヤはバビロン捕囚期に活動した預言者であるが、神殿に入ることを禁じられていたと記される。彼以外の預言者は、バビロンの脅威が迫ってもなお、「エルサレムは平和だ」「主の神殿は守られる」と語っていた。しかしエレミヤは真実を見据え、エルサレムや神殿の滅亡を語った。誰でも悲観的な言葉は聞きたくない。それが出入り禁止の理由だ。
しかし神の言葉を真剣に語ろうとする者は、安易な楽観論やおなぐさみを語るのではなく、時には人の耳には痛いことも語らねばならない…そんな覚悟で主の言葉を語ったエレミヤは、捕囚の危機にあるイスラエルにとっての宗教改革者であった。
新約の箇所は、伝道者パウロが弟子であり同労者のテモテに宛てて書いた指導の手紙の一節だ。その中でパウロは、イエス・キリストに従う者は迫害を受ける、と記している。(3:12) 残念なことに真実を見つめそれを貫こうとする人が迫害を受ける時代がある。これまでもあったし、これからもあるかも知れない。
そんな時代には悪人や詐欺師の方がうまく立ち回るかも知れない(3:13)。しかしそんな時代の流れに流されてしまわないで、聖書の教えに基づいて語るべきことを語りなすべきことをなすことをパウロは勧めている。「折りが良くても悪くてもみ言葉を語りなさい。」「人々が耳障りのいい話を聞きたがっていたとしても、自分の務めを果たしなさい」と。
パウロも、ルターも、人のニーズに合わせて語るのでなく、神のニーズに応えて語った人たちであった。それは彼らが信じたイエス・キリストこそ、折りが良くても悪くても、たとえ自分が窮地に追い込まれようとも、神の真実を語る ― そんな歩みを示すために、世に来られた救い主だからである。