『 固定観念を超えて 』

2019年7月14日(日)  創立133周年記念日礼拝
使徒言行録11:4-18

長く続いたひとつの価値観を持つ世界に、新しい価値観のものが入ってきたとき、それが認め受け入れられるまでには様々な摩擦・軋轢が生じる。古い固定観念からの逆襲・揺り戻しがあるからだ。

今日は前橋教会の133周年礼拝である。133年前、キリスト教信仰を抱き教会の歴史の黎明期にもそのような固定観念との闘いがあったことだろう。長く続いた「キリシタン禁制」の幕府令、300年近く疎まれ遠ざけられてきたキリスト教。未だにその「アウェイ感」は払拭されていないと思う。それでも「この国にはイエス・キリストの福音が必要だ!」を心を定めた人々によって私たちの教会の礎は築かれたのだ。

初代教会の宣教の歴史の始まりは、ユダヤ人のクリスチャン共同体から始まった。ユダヤ人は長い間、強い「選民意識」を抱いて歴史を築いてきた。それは苦難の時にも耐え忍ぶ力を生み出したが、一方では鼻持ちならない傲慢さをも生み出した。異邦人を「汚れた人」「少し劣った人」ととらえ見下す心理、いわば「差別」を生み出してしまったのだ。

初代教会の初期の時代には、今となっては信じられないような固定観念がまだまだ強くはびこっていた。そのひとつが「異邦人はそのままでは救われない。まず割礼を受けてユダヤ人になり、それから洗礼を受けなければならない」という考え方である。

今日の箇所は、コルネリウスというひとりの百人隊長(異邦人)が洗礼を受ける場面である。その不思議ないきさつをルカは記している。ある日ペトロは夢を見た。神さまがいろんな獣の肉を並べ「こられを食べなさい」と命じられる。その肉の中には、ユダヤ人は食べてはならないとされた肉(豚肉、タコ、イカ等)が入っていた。ペトロが「汚れたものは食べられません」と言うと、「神が清めたものを汚れたと言ってはならない」と言われた...そんな夢である。

夢から覚めるとコルネリアスの僕に出会う。イエス・キリストを信じて何とか入信したいと願い、ペトロたちを探していたというのである。その時ペトロは夢の意味を悟る。これは「異邦人を『汚れている』などと言ってはならない。異邦人を異邦人のまま受け入れなさい」という神さまからのメッセージだったのだ。こうしてペトロはコルネリウスを異邦人のままで仲間に迎え入れた。固定観念を超えて彼らは出会い、救いを分かち合ったのである。

教会の歴史においては、同じようなことが何度も繰り返される。女性の教職(牧師)は私たちにとっては当たり前の存在であるが、長い間認められなかった(今も認めない教派がある)。私たちにとって日本語で聖書を読むことができるのは当たり前のことであるが、長い間「聖書がラテン語のみ」がしきたりであった。「重い皮膚病(ハンセン病)」の人たちをめぐる処遇についても、私たちの常識と聖書の時代の価値観はまったく違っている。そんな固定観念のひとつひとつが乗り越えられて今に至っているのだ。

133年前、教会の歴史を始めた人たちも、固定観念を超えてイエス・キリストと出会い、福音を求め続けた人たちなのだ。その歩みに感謝しつつ、同時に考えていかねばならないことがあると思う。それは私たち自身が新たな固定観念を生み出す元凶になっていないかどうか、ということだ。

人は、自分が大切にしてきたものが変えられていくことに抵抗を感じるものだ。しかしそれは自分たちで作った固定観念なのかも知れない。そんな振り返りを忘れぬようにしたい。そして、新たな人の新たな変革が始まったならば、それを止めるのでなく信じて見守る、受け入れる、そんな振る舞いを大切にしたい。なぜなら神が与えられる聖霊の導きは、いつの時代にも人間の固定観念を超えて働くものであり、そのような形で人々を新しい世界に導いていくものだからである。