『 まだ生きている、生かされる 』

2019年7月21日(日)
エレミヤ38:1-13,使徒言行録20:7-12

私たちは限りあるいのちの日々の中に毎日の人生を生きている。その人生には終わりがある。それは決して敗北ではなく、ひとつの充実である。ネイティブ・アメリカンの古老が語った「今日は死ぬのにもってこいの日だ」という言葉は、そんな境地を物語る。私たちの生きることも死ぬことも、すべて神の定められた「時」である…そのように信じ受け入れる信仰の世界観においては、死は決して空しいものではない。

しかし聖書には多くの「死と再生の物語」が記されている。死の時が訪れるまでは、私たちは確実に神さまによって生かし、いのちを導いて下さる…そんなことをこれらの物語は示している。

預言者エレミヤは、バビロン捕囚期のエルサレムの人々に、他の「おかかえ預言者」のような安易な慰めを語らず、神の裁きと都の滅びをまっすぐに語った。それ故彼は弾圧され迫害され、その苦しみの中で多くの嘆きを語る。「嘆きの預言者」とも呼ばれている。

ある日エレミヤは縄でくくられ水溜の中に吊り降ろされた。自ら語った預言によって捕らえられ、命までも取られようとしている状況である。そんな彼に援軍が現れる。クシュ(エチオピア)人の宦官、エベド・メルクである。どん底の状態にあったエレミヤを救ったのは、同朋であるユダヤ人ではなく、異邦人の働きかけであった。

エレミヤは苦難の中で「もうこりごりだ。いっそ命を絶ってもらった方がありがたい」と思ったかも知れない。しかし彼は生かされた。それは彼にまだやるべきことがあったからだ。

新約ではパウロによる「死と再生の物語」が語られる。ある日彼の長い(退屈な?)説教を聞いていたエウティコという若者が、居眠りをして3階の窓から転落してしまった。動かなくなったのを見て、周りの者は「死んでしまった」と大さわぎをした。しかしパウロは駆け寄り彼を抱き上げ、「騒ぐな!まだ生きている」と語った。するとその言葉通り、若者は息を吹き返した、と記される。

私たちはイエス・キリストによる、会堂長・ヤイロの娘の癒しを想い起す。この時も、周囲の人々が「娘は死んでしまった」と嘆き悲しんでいる中で、イエスは「恐れることはない。ただ信じなさい、そうすれば娘は救われる」と語られた。

私たちの信仰は、人の目では「もうダメだ、おしまいだ」と死んだように見える事柄であっても、それでも「まだ生きている、生かされる」という希望を見出すものなのではないだろうか。なぜならば、イエスの十字架と復活が私たちの信仰の原点なのだから。

私たちにとって死は敗北ではない。しかしその死に至るまで、神さまは私たちを生かしてくださる。「まだ生きている、生かされる」との信仰に希望を委ねる者でありたい。