『 和解と赦し 』

2019年7月28日(日)
サムエル記上24:8-18,ルカ7:36-50

熊本地裁で争われていたハンセン病家族訴訟では、国の責任を認め賠償金の支払いが命じられた。当初国は控訴すると見られていたが、「政治的判断」によりこれを断念、原告の勝訴が確定した。参院選挙のためのパフォーマンスではなく、本当の意味での解決を目指して欲しい。

本当の解決とは何か。賠償金が最後のひとりにまで払われることか?そうではなく、誠意ある謝罪を被害者が受け入れて真の意味の和解がもたらされることである。「謝っとるやないか!いつまで文句言うんや!」という態度は、真の問題解決をもたらすことはないであろう。

「和解と赦し」それはキリスト教の大切なテーマである。「人はみな罪人として生まれるが、イエス・キリストの十字架の贖いによってその罪を赦され、和解が与えられる」これがキリスト教の語る「救い」である。

中には頭ごなしに「罪人」と決めつける語り口に反発を感じる人もいるかも知れない。しかし「犯罪者」というわけではなくても、心の中に疚しい思いが「ひとつもない」という人はいないのではないか。自己中心、他者への無関心、人への恨み、自己保身、ウソ、軽蔑、差別… そういう思いを抱きながら、それでも「赦されて生きてきた」、それがわたしたちひとりひとりの偽らざる現実だと思う。

自分の過ちに気付いたならば、その罪に居直らないこと。そして過ちを認め悔い改めること。そのような態度こそが和解と赦しのためには必要だ。

旧約はサウルとダビデの和解の場面である。ダビデの才能に嫉妬するサウルの度重なるいじめに対し、ダビデは決して「やられたらやり返せ」とは応じなかった。むしろ敵対することを避け、逃げ続けた。サウルを討ち取ることが出来た機会にも、命を奪うことはしなかった。そんなダビデのふるまいの中に誠実さを感じたサウルは、涙を流して自分の過ちを悔い改め、ダビデに謝罪した。ダビデはその言葉を受け入れ、和解と赦しが訪れた。

「旧約の神は裁きの神」と言われる。確かに厳しさも備えた姿が描かれているが、旧約聖書の中には「和解と赦しの物語」がいくつも含まれているのである(ヤコブとエサウ、ヨセフ物語等々)。

新約はイエスにナルドの香油を注いだ女性のエピソード。マルコでは「イエスの葬りの準備」をしたとされたこの出来事を、ルカは「罪赦された女の物語」と位置付ける。

ファリサイ人・シモンの家に食事に招かれた時、ひとりの女がイエスに近寄り、「涙で足を濡らし、髪の毛でそれを拭い、香油を塗った」と記されている。彼女は「罪の女」と呼ばれた遊女だったのかも知れない。異様な光景の中、軽蔑の眼差しで見つめるシモンに、イエスは「この人は多くを赦されたから、感謝の思いを表しているのだ」と言われ、「あなたの罪は赦された」と宣言された。彼女のイエスに対する思い、「この人なら私のことを受け入れてくれる」という気持ちが彼女の行動を生み出した。そしてこの女性を、イエスは「正義」で裁かない。

私たちもまた赦されている者である。「赦されている者」として、和解と赦しへの道に少しでも参与したい。自分の罪に気付いたならば悔い改めること、人が自分に犯した過ちに対してはこれを赦すこと。赦せなくても裁かずに、憤りや怒りの思いを神に委ねること。それが私たちにできる「和解と赦し」のための行動である。