2019年12月1日(日) アドヴェント第一主日
イザヤ52:1-10,ローマ10:9-17
クリスマスの季節になると、ヘンデルのメサイアがよく演奏される。メサイア=救い主の生涯を歌い上げた、ヘンデルの不朽の名作である。しかし彼がこの作品を作り上げたのは、その人生において最も辛い時だったと言われている。病気(脳卒中、リウマチ)の苦しみ、最大の支援者(キャロライン王妃)の死、といった出来事の中で作られたのである。
病気と絶望と貧しさのどん底で、ある日ヘンデルは聖書の言葉に突然の閃きを得る。それはイザヤ書53章、苦難の僕のうたであった。武力で敵を制するのではなく、自ら傷を負うことによって救いをもたらす「苦難の僕」。ヘンデルはそこに慰めを感じ、取りつかれたように作曲を始めた。そしてたった三週間あまりでこの大作を書き上げたのである。
メサイアの中に、今日の旧約箇所、「いかに美しいことか、良き知らせを伝える者の足は」の歌詞によるアリアがある。「よき知らせ」とは何か。それは第2イザヤの歴史的文脈においてはバビロン捕囚からの解放であった。
ユダヤ人にとって最も苦しい体験となったバビロン捕囚。しかし新たに興った新興国ペルシャによってバビロニアは打ち倒され、捕囚の民も解放され自由を得た。ペルシャを打ち倒したのはペルシャ王・キュロス。イザヤは当初、このキュロスこそメシア=救い主である、と大絶賛をしている(44~45章)。「よき知らせを伝える者」とは、このキュロスのことなのだろうか?
しかしイザヤのキュロスへの期待は急速にしぼんでゆく。彼もやはりひとりの権力者であり、「愛とまこと」ではなく「力と損得勘定」で世を支配しようとすることへのイザヤの失望が広がったのかも知れない。代わりに、イザヤが神から遣わされるまことのメシアの姿として語ったのが、53章の「苦難の僕」であった。今日の箇所で讃えられ、メサイアのアリアで歌われる「よき知らせを伝える者」とは、苦難の僕であり、十字架で苦しまれたイエス・キリストのことなのではないだろうか。
ところでイザヤの賞賛の言葉は、とても変わった表現である。讃えられているのは、良き知らせを伝える者の、その姿でも顔でもなく、言葉や声でもない。「足」が讃えられているのである。容姿端麗な足の美しさや、優秀な足の機能が讃えられているのではないだろう。良き知らせを伝えるために、あちこちを歩き回り、くたびれ果て、傷だらけ泥だらけになった足。決して「綺麗」とは言えないその足が「美しい」と讃えられているのだと思う。
イエスも旅の人であった。ひとりでも多くの人に救いを告げようと歩かれたその足は、きっと長旅で傷つき擦り切れていたことだろう。イエスが去った後、その生涯に現わされた福音を告げ知らせようとした弟子たちの足も。しかしその足に、マグダラのマリアは香油と感謝の涙を注ぎ、そしてイエスは弟子たちの足を洗われた。それは「美しい足」に感謝し、ねぎらう人々の姿である。そのような「美しい足」の働きによって、私たちは「よき知らせ=福音」を受けとめることができるのである。