2020年8月30日(日)
ヨハネ福音書8:3-11
いろんな思いを抱かせられる箇所である。「姦淫の罪」であるのに、連れてこられたのは女性ひとりであったということ。律法学者たちの目的はイエスを貶めることであり、この女性はそのための「道具」として利用されているに過ぎないということ…。どちらも大切なポイントだが、今日はそこには触れない。
今日考えたいテーマは「誰が人を裁けるのか?」ということ、そして「罪の赦しとは何か?」ということである。
「罪の赦し」はイエス・キリストの、そしてキリスト教の大切な福音の柱である。しかしそれ以前のユダヤ教で軽んじられていたかというと、そうではない。礼拝の儀式でいけにえがささげられていたのは、罪の赦しを得るためであった。それは信仰の最重要課題だったのだ。
儀式を司るのは祭司・レビ人。そして何が罪かを示す律法の教師が律法学者・ファリサイ派たちである。これら宗教エリートたちはイエスとことごとく対立した。彼らは「悪人」だったわけではない。むしろ律法の秩序の下では極めて「正しい人」であったのだ。
ではなぜそんな彼らと、イエスが対立したのか。それは宗教エリートたちが、自分たちとは同じように律法を守らない(守れない)人々を「罪人」と呼び、裁いてしまったからである。「自分たちは正しい。自分たちには人を裁く資格がある」そのように思い込み、他者を「査定」してしまったのである。イエスが批判されたのは、この「人を査定する振る舞い(眼差し)」であったと思う。
イエスは彼らによって「生きる値打ちのない人間」と査定された人たちを訪ね、「あなたの人生には意味がある、あなたも救われるのだ」と教えて回られた。そしてその立場から身を翻すようにして宗教エリートたちを批判された。
今日の箇所で、イエスをひっかけようと、この女性を石打ちの刑にすることの是非を問うてくる人々に対して、イエスは「黙って地面に何か書いておられた」と記されている。対決姿勢ではない。むしろやるせなさ、不毛を感じる思いを表す振舞いである。
それでもしつこく問い続けられたので。イエスは言われた。「あなたがたの中で罪のない者が石を投げなさい。」これは一種の賭けである。このように言われて「じゃあ私が…」という人が一人でもいたなら、群衆心理は後に続く人々を生み出しただろう。しかしイエスには確信があったのだろう。「このように言われて平気で石を投げられる人など、いない」と。その意味でイエスは、彼らエリートたちの心の奥底にもある良心に信頼を置いておられたのかも知れない。
イエスは女性に言われる。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯してはならない」。人を裁けるのは神さまだけ。だからイエスも人を裁かない。しかしそれは「無罪放免」ではない。どんな事情があろうとその事情のせいにして罪を重ねるのではなく、罪を離れて新しく歩むことが示されるのである。
この女性はその後どうなったのか?続編は記されていない。罪赦された者がその後どのように歩むのか…その続編は、私たちひとりひとりが描くように託されているのである。
最後にひと言。そうは言っても私たちは秩序に基づいた社会で暮らしている。法があり、ルールがあり、不文律がある…そしてそれを守ることで社会の安定と秩序が保たれている。そんな中でルールに反した者にはそれなりのペナルティを与えねばならないことがある。
しかしそんな時にも忘れないようにしたい。「果たして自分に人を裁く資格があるのだろうか?」という問いを自分に向けることを。「私には人を裁く資格・権利がある!」と思い込むと、人間はとことん残酷になる。しかし「果たして自分に…」という意識を持つことができれば、少し違う向き合い方ができるのではないだろうか。
私たちはしょせん「肉の人」同士である。裁きは神に委ね、私たち「肉の人」同士は互いに赦し合い、それぞれが新しい道に導かれることを信じて歩みたい。