2015年2月15日(日)
ルカによる福音書9:10-17
以前、関わりを持っていた保育専門学校で、ある先生が毎年の卒業式で語りかけていた言葉が印象に残っている。「『ならのしか』。この言葉を憶えておきなさい。これから保育の現場で出会う子どもたちに向かって、『お前はこれしかできない』と言うような先生になるな!『君はこれならできるね』そう言える先生になりなさい」。その学校は少人数で、ひとりひとりの学生を大切に受け入れていた。そんな校風にふさわしい贈る言葉だった。
「ならのしか」。わたしたちの日常の生活においても、この二つの言葉がせめぎ合っている。ボトルに半分になった琥珀色の飲み物を見て、「あぁ、もう半分しかない」と嘆くのと、「まだ半分ならある!」と喜ぶのでは、おのずと歩みが違って来る。事実そのものが変わるわけではないが、その受けとめ方によって、同じ状況の中を生きる人の姿は変わってくるのだ。
イエスの「5千人の給食」の奇跡物語である。五つのパンと二匹の魚で5千人もの人が満腹になった… はたして本当にそんなことがあり得るだろうか。子どもの頃は「よっぽど大きなパンと魚だったのだなぁ(カジキマグロ2匹と直径1mのパン5つ)」などと妄想をたくましくしたものだ。
最も納得した解釈は、高校時代に中高科の礼拝でCSの先生が話してくれたもの。その先生は「イエスは本当にパンを増やされた」と言われた。ただし、5つのパンを物理的に増やしたというのではなく、「分かち合うためのパン」を増やされた、というのだ。実は他にパンを持っていた人もいたが、自己中心的な思いでそれを差し出さなかった。しかしひとりの少年(ヨハネの記述)が自分の食べ物を差し出すのを見、イエスがそれを分け始めるのを見て、恥ずかしくなってあちこちで分かち合いが始まった… そんな解釈であった。「なるほど!」
実際に何があったかは分からない。ただ確かなことが二つある。2匹の魚と5つのパンがそこにあったということ。そしてそれをイエスは分かち合おうとされた、ということである。
最初イエスは弟子たちに「あなた方の手で食べ物をあげなさい」と言われた。弟子たちは答えた。「私たちには2匹の魚と5つのパンしかありません」。そりゃぁ無理ですよ、これっぽっちで何ができるでしょう… そんな弟子たちの反応は極めて「常識的」である。けれども、「これしかない」というところからは、奇跡はおろか、分かち合うこと(共に生きること)すら生まれない。
イエスはある意味「まとも」ではなかった。「これならあるじゃないか」と5つのパンを5千人で分けようとされた。「どうかしてるぜ!」そう思った人もいたかもしれない。しかし、その無謀にも思える振る舞いを見て、人々は「分かち合い」を始めた。自己中心的な人間が、分かち合う存在(共に生きる人間)へと変えられるという「奇跡」が起こったのだ。
イエスはパンを裂いて、それを弟子たちに配らせた。最初、「これしかありません」と答えた弟子たちに、「あなたがたの手でやりなさい」とその働きを託されたのだ。働きの多寡でなく、能力の優劣でもなく、イエスのその招きに応えて自分の持てるものを差し出す振る舞い。そこに祝福があり、そこに奇跡が起こる。