『 闇のような時代に 』

2025年1月26日(日)
イザヤ8:23b-9:2、マタイ4:12-17

先週行われた、とある国の代表者の就任式では、これまで人類が積み重ねてきた大切な価値観を大きく覆す宣言がいくつもなされた。気候変動への取り組みや、ジェンダーに関する人権の価値観を、大きく変更するという。地動説の時代に天動説を主張するようなその内容に、闇のような時代が来ようとしているのを感じずにはいられなかった。

預言者イザヤの活動した時代も暗闇の時代であった。アッシリアの脅威にさらされる南王国ユダで、イスラエルの人々は浮足立ち不安をかかえながら日々を過ごしていた。そんな暗闇に光をもたらす救い主の誕生を預言するのが今日のイザヤ書9章、クリスマスの時期にもよく取り上げられる「メシア預言」の箇所だ。

その預言の成就としてこの世に来られたイエス・キリスト。イエスの時代もまた「闇のような時代」であった。今日の新約聖書の箇所では、バプテスマのヨハネが捕えられたことが伝えられている。

バプテスマのヨハネ。イエスの活動の準備をした人で、荒野を拠点に火のような激しい言葉で悔い改めを迫った。特にユダヤ人の選民意識による「特権」によりかかっていた人々に、容赦なかった。その姿勢は相手が当時のユダヤの最高権力者、ヘロデ・アンティパスでも変わらなかった。

ヨハネはヘロデが弟フィリポの妻を我が物にしたことを正面から批判した。ヘロデは「厄介者」のヨハネを捕え、投獄してしまった。権力者に対して歯に衣着せぬ態度で神の正義に照らして言うべきことを言うと、捕らえられてしまう...イエスが宣教を始めたのはそんな時代だったのだ。

ところで、マルコでもイエスの宣教開始と、ヨハネの逮捕が関連付けて記されている。しかしそのニュアンスは少し違う。マルコはヨハネが捕えられるとすぐさま立ち上がるイエスの姿を描く。まるでヨハネの活動を引き継ぐかのように。しかしマタイは少し違う。ヨハネが捕えられると、ガリラヤに一旦退却される姿が描かれるのである。

そう言えば、イエスが生まれた時に起こった幼児虐殺の悲劇の時も、イエスと両親は神のお告げを受けてエジプトに退避した。「一旦逃げることもアリだよ. . .」そんな風に記されるのである。

権力者が我が物顔で振る舞い、反対者を追放し弾圧する、そんな時代は「闇のような時代」だ。そんな中をいかに生きればいいのか。マタイの記述はヒントを与えてくれる。

ヨハネのように正面切って、弾圧覚悟で言うべきことを言う. . .そんな「カッコいい」歩みもあるだろう。しかしイエスは違う道を進まれる。最終的な対決は避けられないとしても、今は退却し時を稼ぎながら歩む。そしてそこで「いと小さき者」と出会い、身体と心を救う. . .そんな道をまず歩まれたのだ。

暗闇に光をもたらす働きとは、闇をもたらす存在を打ち倒す「大きな力」によってではなく、イエスのように小さき者に寄り添い歩む愛の業の中からこそ生まれるのではないだろうか。