9月21日 恵老礼拝
聖書:マルコによる福音書12:38-40
夏に帰省してきた理学療法士をしている娘に、「立ち姿がヤバいよ。加齢で体幹の筋肉が落ちてるんじゃない?」と指摘された。自分ではまだ大丈夫だと思っていたが、腹筋を使った上体起しをしてみたらできない。指摘通り筋力が落ちてるらしい。少しショックだった。
「歳をとる」というのは、たとえばそういうことだと思う。重たいものが持てなくなる、長い距離が歩けなくなる、とっさの反応が遅れる、今まで出来ていたことができなくなる…。身体の機能が低下し、全盛期に比べると体力が下がってくる。身体機能だけではない。物忘れが多くなる、怒りやすくなる、同じことを何度も繰り返す…脳の方の機能も下がってくる。それが「歳をとる」ということである。
歳をとることをマイナスととらえる価値観が蔓延している。「歳をとると衰えるばかりだから、誕生日がきてもうれしくない」という人がいる。「見た目よりお若いですねー」と言われて喜ぶ人がいる。挙句の果てには「アンチエイジング」を施すなど「老いる」ことに怯えている人がいる。私たちの社会は「上手に老いる・枯れる」という作法を見失ってしまったかのようである。
しかし、信仰のまなざしで見るとき、まったく違う風景が浮かび上がる。「歳をとる」ということは神さまから与えられたいのちの歩みをまたひとつ重ねるということである。だからそれを卑下する必要はない。嘆くことがあってもいいだろうが、嘆きっ放しではいけない。「歳を恥じる、歳をかくす」ということは、神の恵みを恥じる・かくすということではないだろうか。
「若いこと・元気で快活であることがよい、歳を重ねて快活さを失うのはイヤだ」という考え方は、とどのつまり「強いことがよい・弱いことはダメだ」ということに通じるが、その考え方は明らかに聖書の福音に反するものだ。なぜならパウロが言うように「神の力は弱さの中にこそ発揮されるもの」(第2コリント12:9)だからだ。
今日の箇所で、偉い立場に立ってふんぞり返る人たちの姿をイエスは批判する。このような歳のとり方にはなりたくない。自分の衰えを、すなわち弱さや不自由を受け入れる。そしてそれにもかかわらず神に感謝し、それにもかかわらず笑う。そんな心持ちで「小さな奇跡」を起こしながら、さわやかに歳を重ねたい。