『 神の救いを祈念して 』

10月5日(日)世界聖餐日礼拝

マルコによる福音書14:22-25

今日(10月5日)は世界聖餐日、世界中のキリストにある教会の人々が共に聖餐にあずかる日である。第二次世界大戦の深い傷跡の残る1946年、WCC(世界教会協議会)の前身にあたる世界キリスト教連合会の呼びかけにより始まった。多くの人々、また教会も戦争によって引き裂かれ、敵対し、血を流し合った… その反省を基に、「聖餐を通してすべての教会が和解し一つになるように」という願いが込められている。

聖餐はイエス・キリストを信じる人々の一致のしるしである。パウロによって記された聖餐の制定の言葉(Ⅰコリント11章)には、「わたしの記念としてこのように行ないなさい」というイエスの言葉が繰り返されている。聖餐はイエスの生涯(十字架の死と復活)によってもたらされた神の救いを記念する儀式だということである。

ユダヤ教にとっての「神の救い」とは何かと言えば、それは過越しの物語である。エジプト脱出前夜、鴨居に羊の血を塗った家だけは主の災いが過「ぎ越した」。エジプト王ファラオに奴隷解放を決断させる最終的な出来事である。これを記念して現在でもユダヤ人の間では過越しの祭りが行なわれている。

聖餐も、過越しの祭りも、神の救いを記念(Memorial)するものであり、キリスト教徒やユダヤ教徒にとって大切な信仰の原点である。それは過去の歴史を記念すると同時に、その救いが今の自分にも与えられていることを受けとめる儀式である。

しかし本日行なう世界聖餐日の主の食卓は、そこにさらに一つの思いを加えて行なうものである。それは「平和への願い」「非戦の決意」だ。そしてそれは時間の軸で言えば、すぐれて「未来」に関する事柄である。

エフェソ書でパウロが語るように、キリストは敵意という隔ての壁を取り壊し、二つのものを和解させ平和へと導かれた。その救いの出来事を、これからの時代に実現させることを願って共に主の食卓につくのである。

神の救いに導かれてきたはずの人間の歴史は、一方では戦いと争いの歴史でもある。特に近代に及んで大量破壊・大量殺戮の兵器により、二つの世界大戦で多くの犠牲者を生み出した。戦勝国・敗戦国という区分けではなく、戦争によって亡くなった人と生き残った人という枠組みで考えるならば、生者は死者に対して大きな負い目を持っていると言える。そのことを深い反省と共に受けとめ、二度と同じ過ちを繰り返さないと決意する。過去を「記念(メモリアル)する」だけではなく、未来を「祈念(determination)」する。そのような思いを抱きつつ今日の聖餐にあずかろう。