8月17日 (日)
聖書: マルコによる福音書9:42-50
先週(8/10)の礼拝メッセージで、それぞれの違いを認め生かし合う豊かさを学んだ。その際、同じ聖書の箇所で述べられている、もう一つの大切なポイントには触れずにいた。それは「他よりも弱く見える部分がかえって必要なのです」という言葉だ。弱い部分をおぎなって共に生きようとする中で、全体が強くされ豊かになる。そんな関わりの大切さをパウロはここで述べている。
かつて、右足を骨折して6週間のギブス生活をしたことがある。不便を感じたが、具合の悪い右足を補おうと左足で移動するうちに、左足や腹筋はたくましく鍛えられるという経験をした。韓氏意拳という武道で最強の構えは、母親が赤ん坊を抱く型だという。弱いものを守ろうとする時に、人の能力は最大化するのかも知れない。
申命記では「神に選ばれた民」イスラエルに向けて、その選びにふさわしい歩みをすることが求められる。「孤児・寡婦・寄留者」を主は愛される。それらの言葉で象徴される他から助けを必要とするような弱い存在、そういった人たちを大事にする共同体を築きなさい、と。「あなたたちは寄留者を愛しなさい。あなたたちもエジプトでは寄留者だった。」(申10:19)
イエス・キリストは小さなひとりをつまずかせる者への厳しい裁きを語られる。手足を切り捨て目をえぐり出すという言葉は、穏やかな思いでは聞けない。しかし裁きを語るのが目的なのではなく、本当に言いたいことは「いと小さき者をないがしろにするな」という教えであろう。
「これらの最も小さな者のひとり」という言葉は、あのマタイ福音書に記されたイエスの譬えを想い起させる。申命記の「かつてお世話になった者として、あなたも世話をしなさい」という教えを、イエスはさらに一段階昇華させる。助けを必要とする「最も小さな者のひとり」に対して行なった行為、それはキリストに対して(そして神さまに対して)したことなのだよ、と。
草津でハンセン病患者の救援活動に携わったリー宣教師。亡くなった方の体を湯灌して葬る姿を見て、周りの人が「なぜそこまでするのですか?」と尋ねると、彼女はこう答えたという。「私はイエスさまの十字架のお傍にいることができませんでした。今こうしてお世話をすることを通して、イエスさまを一緒に葬らせていただいているのです。」
「自己決定・自己責任」という言葉を掲げて、「強者の論理」で席巻されていく現代の世相がある。グローバリゼーションの経済活動もその路線を追いかける。そんな時代だからこそ、「小さなひとり」を大切にされたイエスの生き様に倣いたい。