8月24日(日)
聖書: マルコによる福音書10:13-16
8月18-20日にかけて、千葉で行なわれた「子どもの友セミナー」に参加した。プログラムの進行を「こども実行委員」(小学生)がつとめていたのが印象的だった。かつてはこのセミナーも大人主導で行なわれていたが、「子どもと共に歩むことを大切にしたい」という思いが語られ、実行委員会に子どもを加える形で現在に至っているという。
「教会に集まる子どもが少なくなった」という悩みがあちこちでに語られている。CSの活動をお休みにせざるを得ない教会も増えていると聞く。幸い前橋教会はまだ活動が続いているが、何もせずに手をこまねいていると、そんな日が来るかも知れない。
イザヤは捕囚の苦しみを、「子どもを与えられない母の悲しみ」にたとえた。教会に子どもの声がしなくなる日。そんな日が来ないことを望みたい。そのためには教会も変わっていかなければならない。
イエス・キリストの元に子どもを連れてきた人々を、弟子たちは叱り子どもを遠ざけようとした。「子どもはうるさい。ここは子どもの来るところじゃない。」そう考えたのだろうか。するとイエスはこれを見て憤り、「子どもたちを来させなさい」と言われた。
この箇所を読むたびに思い出す体験がある。17年前、前任地の東神戸教会に赴任したばかりの頃。我が家には3人の子どもがおり、主日礼拝中も時々大きな騒ぎ声を礼拝堂に響かせていた。ある日の役員会で、長老格の方が言われた。「最近、礼拝中に賑やかな子どもの声が聞こえますなぁ…」。内心、怒られるのではないかとドキッとしていた。
するとその方は続けた。「これがよろしい!教会で子どもの声がする、そうでないとあきません!」ホッと胸をなでおろし、救われた思いになり、そしてとても心が温かくなった。賑やかな子どもたちの声を、目を細めて喜んで下さる大人たちの存在。そんな中でわが家の子どもたちは育んでいただいた。
イエスはなぜ「子どもたちを来させなさい」と言われたのか?「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、そこに入ることはできない」。何事も理屈で理解しようとする大人の小賢しさではなく、自分の存在全体を理屈抜きに委ねる素直さの中にこそ、神の国に至る道が開かれるということだ。子どもがいない、ということは、神の国への道しるべを失うということなのではないか。
「子どもを受け入れる」とは、「子どもに媚を売る」ということではない。子どもを成熟に導くことも、大人の重要な役割だ。しかし時には大人が子どもに学ぶことも大切なことではないか。子どもたちと共に歩む教会でありたい。