2017年11月26日(日)
サムエル上16:1-5,Ⅰテモテ1:12-17
旧約は、イスラエル初代の王・サウルの後継者として、ダビデが預言者サムエルによって選ばれ、王の任職の儀式である「油注ぎ」を受ける場面である。サウルは有能な王であったが、そうであるがために尊大になり過ぎ、主はサウルに変わる王を選ばれたのである。
サムエルが主の言葉を受けてエッサイの元に行った時、7人の屈強な息子たちが迎えたが、いずれも候補には選ばれなかった。「容姿や背の高さに目を向けるな。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。」と主のお告げがあった。そして選ばれたのは、兄弟の中でも最も年若く、まだ少年であったダビデであった。
その後のダビデの活躍はよく知られるところである。ペリシテ人の大将、大男のゴリアテを石投げ紐と石ひとつで打ち倒す。ライオンと闘い組み伏せてしまう。そしてサウルの次代の王となってゆく…。ダビデはそのような能力があったから選ばれたのだろうか?むしろ「いと小さき者を選ばれる神の選び」がそこにあったのではないか。「わたしがあなたたちを選んだのは、他の度の民より貧弱であったからだ。」(申命記7章)
神さまは容姿や姿かたち、肩書や功績を見られるのではなく、心を見られる方である。ダビデはそのまなざしによって選ばれたと言えるのではないか。私たちもそのまなざしに応える生き方ができる者でありたい…と思うが、ことはそう簡単ではない。
「主は心を見られる。」そう言われて「ハイ、分かりました。素直な心で生きていきます…」そのように振る舞える人がどれほどいるだろうか。私たちの心の中は、常に誰かへの不満や批判、嫉妬ややっかみ、あるいは面倒なことには関わりたくない無関心…そういった邪悪なもので満ち満ちているからだ。
心を見られる神のまなざしに晒されたならば、裁きを免れ得る人がどれだけいるだろうか。そう考えると、心を見られる神とは、私たちにとって恐るべき存在である。
けれども、イエス・キリストの示された神は、私たちの罪ゆえに裁きの烙印を押される方ではない。罪を決してよしとはされないけれども、人がその罪を離れることを願い、悔い改める者には赦しを与えて下さる神なのである。
ダビデも心を見られる神によって選ばれた。しかしそれは彼が正しく清い心を持っていたからではない。ダビデも罪を犯した(バテシバ事件)。しかしその罪に気付いた時、それを認め悔い改めた。そのような心を神はご覧になっておられたのだ。
心を見られる神のまなざしは、私たちにとってある意味では恐ろしいものである。しかしその恐ろしさを突き抜けて、それは心安らかにされるものでもあるのではないだろうか。なぜならそのまなざしの下では、私たちはもはや自分を取り繕いよく見せようと振る舞う必要がなくなるからだ。弱い至らない自分、「神さま、こんな自分でごめんなさい」という自分、そこから始めていくしかない。それでいいのだ。