『 神との格闘 』

10月12日(日)

創世記32:23-33、マルコ14:26-42

2014年大相撲秋場所の逸ノ城の活躍は、久々に大相撲を盛り上げた。初入幕の新参者の立場にも関わらず、横綱・白鵬に正面からぶつかっていく姿に興奮させられた。格闘技の醍醐味は互角の勝負や番狂わせである。その期待をわずかでも抱かされ、手に汗を握ってその対戦を見つめた。

今日の旧約の箇所は「神さまと格闘した男」ヤコブの物語である。ヤコブという人は、何か人を出し抜いて利を稼ぐといった一面から「小ずるい人」というイメージがある。今日の箇所でも神と格闘し互角に闘い、しつこく神に絡みついてその手を離さず、痺れを切らした神から祝福を受けるという姿が描かれる。まるで神さまと対等な立場に立って、取引をして祝福を勝ち取ったかのように。しかしそれは裏を返せば、それだけ神さまの祝福を受けたかった、ということでもあると思う。

「神さまと人間とが互角であるはずがない」。信仰的な思いからそのような反論がなされるかも知れない。確かに神と人との関係・立場を逆転させてはいけないこと、即ち自分の要求を都合よくかなえてくれる神を求めてはいけないということは、私たちの大事な信仰の課題と言える。しかし本当に心から願うことがあるなら、時には神さまと格闘することがあってもいい… この物語はそんなことを語りかけているのではないか。

イエス・キリストもまた、神と格闘された。それが「ゲッセマネの祈り」だ。イエスがその生涯において実際に闘った相手の多くは、律法学者・ファリサイ派といった、当時のユダヤ教の指導者たち。エリート主義の価値観で神の恵みを独占するかのような姿に対し、イエスは闘いを挑まれた。そしてその結果、十字架へと追いやられたのだ。

しかしこのゲッセマネにおいて、イエスは神と格闘している ― そう思う。「神さま、わたしはあなたの御心にかなう生き方を目指し生きてきました。しかし正直に言えば、ここで人生の終わりを迎えたくはありません。どうぞこの盃を私から取り除けて下さい」。それはまさに神と真っ向からぶつかり、格闘する人の姿である。

小塩 節さんはその随筆の中で、生まれたばかりの息子が肺炎にかかり死の宣告を受けた時の心情を綴っておられる。「私は『御心のままに』とは祈れなかった。御心のままにされては困る。もし神さまが出てきたら、壁にかけてあったピッケルで神さまをぶち倒そう。そう思った」。わが子のことを大切に思うこの心象を、私は決して不信仰だとは思わない。

時には神に向かって叫ぶ。「どうしてこんな目に合わねばならないのですか!」と抗議する。そのような祈り、神と格闘するような祈りがあってもいいと思う。それはその人が、それだけ真剣に神さまと向き合っている証しなのだから。