『 神さまのまなざし 』

7月20日(日)

マタイによる福音書10:26~31

新しいエレベーターに乗った時、防犯のためのモニターに映し出された自分の姿を見た。ななめ後方上部から見た姿(後頭部)はとても自分の姿とは思えなかった。「自分のことは自分がよく分かっている」というのは、とんでもない思い込みなのかも知れない。そう思った。

「神さまはあなたのことをいつも見ておられるよ」… 教会ではよく語られる言葉である。私は幼い頃、そんな「監視カメラの」のような神さまが苦手だった。誰にも知られたくない心の奥底の思い。それを暴き出すような神さまは正直好きになれず、なるべくなら近くにいないで欲しい、時には見て見ぬふりをしていて欲しい…そんなことを願う子どもであった。

「わたしは近くにいる神なのか。わたしは遠くからの神ではないのか。」エレミヤに臨んだ主なる神の言葉である。信仰者にとって神の存在は、身近におられていつも守って下さる、そうであって欲しい… そんな願いを抱きがちである。しかしエレミヤは、そのような「親しい」神=近くの神ではなく、人間にとって計り知ることのできない、乗り越えられない距離の向こう側におられる神を語る。それは彼と同時代の「おかかえ預言者たち」が語ったとされる、人間の欲望を都合よくかなえて下さる「近い神」の姿とは対照的である。

「私たちは人間に甘い顔をして近寄って来る神を求めてはならない。そんなに辛い状況があっても、それでも真実を携え厳しく迫られる神こそ、私たちの主なる神だ。」それがエレミヤの示す「遠い神」の姿である。

イエスはどうとらえておられたのだろうか。イエスほど、神の存在を近くに感じて生きた人はいなかった。「アバ」=「おとうちゃん!」という呼びかけの言葉にその親密さが現れている。しかしその近さは、エレミヤが語る「近い神」とは異なる。

いつも、恵みを持って守り導いて下さる。「あなたはあなたであってよろしい」と語りかけて下さる。しかし一方で、だからこそひとりひとりをまっすぐに見つめ、「あなたの歩みは本当にそれでいいのか?」と問いかける方でもある。一羽のすずめにさえ目を留めて下さる神さま。髪の毛一本まで残さず数えられる神さま。そんな神さまの姿をイエスは語られる。

神さまのまなざしは、自分の弱さもちっぽけさもすべてお見通しだということ。それはある意味恐ろしいことである。しかし別の視点に立つとき、それは安らかな思いへと導かれることでもある。なぜならそこでは、もはや自分を偽る必要がないからだ。見栄や虚勢を張ることなく、あるがままの自分から始めるしかない。そんな「わたしを見つめるまなざし」を感じて、誠実に生きる者となろう。