7月27日(日)
列王記上10:1-13、マルコ8:27-31
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。大事な教えだ。しかし自分の経験したことのない痛み・苦しみを共感することは、できそうでできない。健康な人には、病気の人の痛みが本当のところは分からない。強い人が弱い人の気持ちを理解することは困難だ。
旧約の箇所は、シェバの女王がソロモンのところを訪ねた時のエピソード。彼女は名君の誉れ高いソロモンに対し、難問・奇問を携えてその知恵を試そうとした。しかしソロモンがあらゆる質問に見事に答えるのを見て、感服して言った。「あなたの臣民はなんと幸せなことでしょう」(8節)。
だが、一方の現実として、ソロモンの繁栄を築くために、重い税や強制労役が課せられたという。ソロモンの治世は、国のエリートたちは幸せだったかも知れないが、庶民にとっては別な評価があるだろう。シェバの女王は結局、ソロモンの有能さのみを評価したのである。
新約の箇所は、イエスが弟子たちに、世間や弟子たちの間でのイエスに対する評価を尋ねている場面である。「あなたがたは私を何者だと言うのか」と問われて、ペトロは答える。「あなたこそメシアです!」力と知恵とを持って人々を苦しみから解放する救い主。それが弟子たちの期待であった。
するとイエスは「そのことを誰にも言うな」と弟子たちを戒められ、続けて自ら苦しみを受ける「人の子」の姿を語られた。「人の子」とは、イエスの一人称とも取れるし、来るべき救い主(メシア)を指す言葉とも言える。いずれにしてもイエスはここで、「強く有能な救い主」ではなく、自ら傷つくことで救いをもたらす救い主について語られる。
「力と知恵のあるお方が悪しき支配を打ち破り救いを与えられる…」という図式は分かりやすい。しかしそのような理解は、「能力主義」という意味では律法学者やファリサイ派の人々と同じ地平に立つことになる。イエスの語る「自ら苦しむ人の子」は、それとはまったく異質の存在だ。
それは自ら苦しみを知るからこそ人の苦しみをも知ることができる、そんな癒し人の姿である。「誰も私の苦しみを分かってくれない」という孤独は、人を絶望に突き落とす。しかしイエスという「傷ついた癒し人」は、決して人をその孤独に捨て置くことはしない。
「自ら背負う苦しみは、他者の苦しみを共感する感性への扉かも知れない…」そのことに気付けたならば、私たちもまた小さな「傷ついた癒し人」になれるのである。