2020年8月16日(日)
士師記6:36-40、Ⅰヨハネ5:1-5
ヨハネ文書は「世に対する勝利」のモチーフをよく語る。現実の苦難や試練にも関わらず、イエスを信じる者には信仰による勝利が与えられるというのだ。それはいったいどんなものなのだろうか。
「やられたら、やりかえす。倍返しだ!」のセリフが有名なTVドラマが再開された。悪がのさばる状況の中で、正しい道を歩む者が最後にどんでん返しの勝利をつかむ。人間はそういうストーリーに快哉を叫ぶ。「仇討ちもの」の芝居が受けるのも似た心理によるものだ。しかし最後に報復するのであれば、それはキリストの勝利ではない。
今日の旧約は、神の力を受けて、300人の少数精鋭で10万人の敵を討ち破った英雄・ギデオンの物語。いわゆる「聖戦」のイメージである。神の力を受け敵を打ち倒す。それが「信仰による勝利」だろうか?士師記の時代の人なら「その通りだ!」と答えたかも知れない。しかしイエス・キリストは「どんなに聖なる戦いでも、最後に相手を打ち滅ぼすならば、それは本当の勝利とは言えない」と言われるだろう。
「やられたら、やり返せ」でもない。「神の力を用いて敵を倒し滅ぼす」でもない。では「信仰による勝利」とは、どんなものなのだろうか。それは「やられてもやり返さない」ということである。相手を倒す神の力を持っていても、それを敵を滅ぼすために用いない、ということである。十字架に架けられ、「神の子なら自分を救ってみろ!」とののしられても、その挑発に乗らずに、むしろ「父よ、彼らをお許し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」と神の赦しを願うとりなしの祈りをささげることである。
「何だ、それじゃやられ損ではないか」と言われるかも知れない。確かに形の上では「やられ損」である。しかし私たちは知っているのではないか。十字架をはじめとする世の力をもってしても、イエスの正義の歩みを止めることはできなかったことを。イエスの愛を消し去ることはできなかったということを。イエスのいのちを終わらせることはできなかったということを。
ヨハネ文書には「世に対する勝利」というモチーフと共に、何度も繰り返される重要なキーワードがある。「神は愛である」「愛する者は神を知っている」「互いに愛し合いなさい」。この愛は、たとえ十字架の死を強いられるような状況にあっても死なない、終わらない…そのことを信じること、そして自分もその愛に生きようとすること、それこそが「信仰による勝利」なのである。
元厚労省職員・村木厚子さんのドキュメンタリーを見た。検察による冤罪事件で、無実の身でありながら告発・起訴され、裁判を闘われた。東京高検が組織のメンツをかけて有罪のシナリオを作り上げようとするのを、粘り強く証拠書類を読み込み、ついに論理の矛盾を発見、「高検の起訴はほぼ100%有罪」と言われる中、逆転無罪を勝ち取られた。それだけでなく、後年、政府の司法制度改革検討委員会のメンバーとなられ、冤罪事件を生まない制度の改革に関わられた。かつて検察によって罪を問われた方が、逆に検察の過ちを糺す人となられたのだ。「大逆転勝利」、ドラマ流に言えば「倍返しの完成!」となりそうな展開だが、私は村木さんの勝利はそこではないと感じた。
村木さんは厚労省を退職後、ひとつのNPO法人を立ち上げられる。元受刑者である女性たちを支援し更生をサポートするプロジェクトである。きっかけは村木さんが収監されていた時の出会い。拘置所なので化粧もなく、ひとりひとりは本当に素朴な少女たち。しかしいろんな事情で追いこまれて薬物や売春に手を伸ばしてしまう… 自分が退職したら、そんな女性たちの出所後を支援する働きを始めようと志を立てられたのだ。「何と愛の深い方だろう」と感銘を受けた。ご自分の冤罪事件で身も心も追い込まれている中、恨みを抱いても仕方ないような状況で、逆に人を思いやり、人間を大切にする心=愛を忘れずに生きられた。この愛に生きる姿こそ、村木さんの勝利なのだと思った。
「世の力」はとても強く、私たちの心は常に引きずられてしまう。私たちはつまずき、過ちを犯し、恨みをいだいて眠る日もあるだろう。形の上では負けてしまう日も。でも覚えておきたい。「やられたらやり返せ」「力には力を!」と勝利を勝ち取ったとしても、それはキリストの勝利ではないということを。イエスのような愛を生き抜くこと、それこそ本当の勝利なのだ、ということを。
そしてそのような愛に生きた人のいのちは死んでも終わらない。そこに私たちの希望がある。