2015年2月1日(日)
ルカによる福音書8:4~15
この春卒園を控える関係保育園・幼稚園の子どもたちが、教会を訪ねて来られる時期を迎えている。せっかく出会った聖書やキリスト教のメッセージに、これからもCS等の活動につながることによって触れてほしい…そんな願いを込めつつ受け入れをさせていただいている。
出会った中のどのくらいの割合の子どもがCSに来てくれるかは分からない。しかしそれも「種まき」だと思って出会いの時を大切にしている。
以前いた教会での忘れられない出会いがある。その人は神戸の有名な進学校から日本の最難関と言われる大学に進み、就職してからも企業の役員などをされ、リタイヤしてから教会に通うようになり、受洗された。「どうして洗礼を?」と尋ねると、ご自身の生い立ちを語って下さった。
「世にいう『エリートコース』を歩んだ道のりは、常に競争を強いられる道であり、実は自分にはとても辛いものだった。唯一キリスト教主義の幼稚園に通い、お友だちと仲良く過ごした時の思い出が温かなものとして残っている。『いつかその世界に帰りたい』そう思って受洗したのです。」
幼稚園の時に種がまかれ、60年の時を経て実を結んだのだ。
今日の箇所は、よく知られた「種をまく人のたとえ」である。たとえの意味は、イエス自身が解説をしておられるので明快だ。「種」とは神の言葉のこと。①道端に落ちて鳥に食べられた種、②石地に落ちて根が張れなくて焼けてしまった種、③茨の中に落ちてさえぎられて大きくなれなかった種。それらはみ言葉との出会いが与えられながら、さまざまな障壁によって信仰の実りを結べなかった人の姿である。
それに対して、④よい地にまかれた種、それは立派な心でみ言葉を受けとめ多くの実を結んだ人の姿である。「だから、私たちも『多くの実を結ぶよい地』のような人間になりましょう」… そのようにしめくくるのは簡単だ。しかしある時、ひとつの歌に出会って、異なる視点を考えさせられた。
♪わたしはちいさなひとつの種 石の上に落ちた
恐らく弱いから花が咲くこともないのでしょう
でも私は知った、石の堅さ そしてなぜそこに置かれたかを
すべてあなたと出会うための恵み 花が咲くほどの幸せ
わたしはちいさなひとつの種 いばらの中に落ちた
恐らく弱いから花が咲くこともないのでしょう
でも私は知った、とげの痛さ そしてなぜそこに置かれたかを
すべてわたしと出会うための恵み 実を結ぶほどの幸せ
すべてあなたと出会うための恵み 花が咲くほどの幸せ♪
(「わたしは小さな」ムラカミ ヒロヤス作 by これもさんびか)
よい地にまかれた種だけでなく、石地や茨の中に落ちた種にもそれなりの意味があったと言えるのではないか。
たとえ話の中の農夫、その種のまき方は、効率優先の立場からすればあまり上手な方法とは言えない。よい土地だけに狙いを定めて集中的に種をまく方が効果的だ(「選択」と「集中」)。しかしイエスはそれ以外の所にも種をまく人の姿を語る。すぐには結果が出なくても、何十年の時を経て芽を出し花を咲かせることもあるのだ。
「不毛」と思える地に、それでも種をまく人の姿。それはある意味、イエス・キリストの姿と重なるものだと言えるのかも知れない。「他の町にも福音を語り伝えよう。わたしはそのために遣わされたのだから」(ルカ4:43)。すぐに成果が出なくても、それでも種をまき続ける働きの大切さを思わされる。
種をまきましょう。