『 生身の人間からの問いかけ 』

2015年3月29日(日)
ルカによる福音書22:39-46

讃美歌438番「若き預言者」(原題は“Oh young and fearless Prophet”)は、イエス・キリストの十字架への道を歩む生涯を歌ったすぐれた讃美歌だ。しかし、5節の歌詞「恐れを知らぬ、主なるイエスよ…」という言葉に少々引っかかるものを感じる。はたしてイエスは本当に恐れを知らなかったのか?と思ってしまうのだ。

十字架の前夜、弟子たちとの最後の晩餐の出来事のあと、イエスはオリブ山ででひとり祈られた。この場面を読む時に、私は気軽に「恐れを知らぬイエスよ…」などとは歌えなくなってしまう。イエスは苦しみもだえ、汗を血が滴るように流しながら、「父よ、御心ならこの杯をわたしから取りのけてください」と祈っておられるのだ。

十字架とは、ローマ帝国における死刑執行の道具である。イエスは自分の行く道の先に、十字架が待ち受けていることを知っておられた。つまり、秩序や律法の順守よりも人間の存在を大切にするといったイエスのような生き方を続けていたのでは、いずれ力を持つ人々によってつぶされてしまうことを予感しておられたのだ。

イエスは平気だったのだろうか?いや、イエスも恐れておられたのだ。ゲッセマネの祈り、それはひとりの人間の苦しみ悶える姿に他ならない。十字架への道 ― それがどんなに世の中に必要なものであったとしても、その道を歩む本人にとっては、とても厳しく辛いものであった。

しかしイエスは、祈りの最後にこうつけ加えられる。「わたしの願いではなく、御心のままに行なってください」。正直言えば私もつらい、できることなら行きたくない、しかしこの道を進むことが神のみ心ならば、その道を歩ませて下さい…。イエスはそう祈られた。そして逃げずに十字架へ向かわれたのである。

私たちとは別格の鉄の意志を持った超人がそのようにした、というのならそれはそれですごいことだ。しかしそうであったならば、私たちとはかけ離れた偉人の武勇伝に終わってしまうだろう。ゲッセマネの祈りが示すのはそのような姿ではない。私たちと同じ心を持った人間、悩みも恐れも抱く生身の人間が、祈る中から十字架に向かって歩んでゆかれたということなのだ。

ここに問いかけが生まれる。「あなたはどう生きるのか」と。もちろん私たちはイエスと同じように十字架の死を引き受ける覚悟などできない。しかし実際に命までは捨てなくても、隣人のために小さな苦労を引き受けることはできるはずだ。ところが、そのようなことすら「私はヤダね」と拒んでしまう、そんな心を私たちは持ってしまうことがある。

世の中には誰かが引き受けなければならないしんどい役割がある。「誰かがやらねばならない、でも誰もやりたがらない…」そんな課題を前に尻込みする私たちに向けて、イエスの声が響いてくる。「はたして本当にそれでいいのか。」それは恐れや悩みを抱えながらそれでも十字架への道を歩まれた、生身の人間からの問いかけである。