『世界のはじめから』川上牧師

2023年10月29日(日)
創世記1:24-31,ヨハネ1:1-14

創世記の天地創造の物語は、この地球のすべての命は神によって造られたことを表している。命は偶然の産物ではなく、神の意志によって造られたもの…そのように受けとめるのが聖書の信仰だ。

ところで、その物語で神はこう言われた。「我々にかたどって人間を造ろう」。疑問を抱かれる方もいるかも知れない。周辺諸国は神々への信仰だったのに対して、イスラエルの人々は神々ではなく唯一の神を信じた。なのに、どうして「神々(複数)」なのか?と。

これに対し、①「君主のWe」②「神と天使を表す」など諸説あるが、その一つに「三位一体の神を表す」という解釈がある。「我々」の中には、イエス・キリストと聖霊が入っている…というのだ。

何とも荒唐無稽に思えるが、キリスト教では割と定着している考え方で、ニケア信条にもそのことが記されている。「先在のキリスト」、つまり世界が創造される前からキリストはおられた、という理解である。

天地創造の初め、すべてのものが造られる様子を、神さまと一緒にイエスが見ておられた…そんな絵を想像できるだろうか?たとえばあなたの目の前に「私は地球が誕生する前から生きてきて、すべてのものを見てきた。そんな私が真理を教えよう」という人が現れたら、その人を信じるだろうか?いかがわしさを感じ、関わりを避けようとするのではないか。「先在のキリスト論」にはそのようないかがわしさがつきまとうように思えてならない。

この「先在のキリスト」というモチーフを、独特の視点で描き出すのがヨハネ福音書である。「先在のキリスト」とは神の言葉であり、すべてのものを照らすまことの光のことである…と。

創造の初めから「人格(肉体)としてのイエス」がおられたというのではなく、形ある存在に先立つ「概念」として「神の言葉・光」があり、それが人間としての肉体を伴って現れたのがイエス・キリスト…ということだ。彫刻家の造り出す作品に先立って、その彫刻家の中に作品を生み出す概念(コンセプト)があるのと同じように。

「世界のはじめからあったもの、それは神の言葉であり神の光であったのだ…」ヨハネはそのように福音書の冒頭に記す。分かるような気もするが、やはり何とも抽象的・観念的な感じがして、どこか固さ・冷たさを感じてしまうのは私だけだろうか。

言葉を置き換えてみてはどうだろう?ヨハネ文書(ヨハネ福音書、ヨハネの手紙)には神さまに対する、印象深い言葉が度々記されている。「神は愛である」。世界のはじめからあったもの、それは神さまの愛だ…そう言い換えてみるのだ。

「この世界は神の愛によって造られた。あなたも私も神の愛の結晶だ。でもそのことを見失った人間に、改めて神の愛を教えるために、キリストが来られた…」そのことを本当に信じるならば、この世界から争いや戦争はなくなるのではないか。世界のはじめからあった神の愛を信じて、共に生きる歩みを目指したい。