創世記12:1-9、ローマ4:13,18-25(11月12日)
聖書の民・イスラエルの始まりは、アブラハムという人物に遡る。ウルという街でそこそこ安定した暮らしを立てていたが、ある日「私の示す地に行きなさい。あなたを大いなる国民の父としよう」という神の召命を受けて旅に出る。アブラハム75歳の時のことであった。
何の確約もない、保証もない…雲を掴むような話にアブラハムは従った。そして各地を転々とした後、神の約束の地・カナン(現在のパレスチナ)にたどり着き、そこで暮らし始める。
75歳で旅立つまで子どもを授からなかったアブラハムだったが、86歳の時にイシュマエルを、100歳の時にイサクを授かった。そのイサクからヤコブが生まれ、ヤコブがある時“イスラエル”と改名する。聖書の民・イスラエルの始まりである。イスラエルの歴史はユダヤ教、そしてキリスト教の歩みにつながって行く。
ちなみにイシュマエルも大きな民族の祖先とされている。それはアラブ人(イスラム教徒)たちである。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を総称して、「アブラハム宗教」と呼ばれている。
「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(創15:6)と記されている。このことを現在の自分たちとリンクさせて受けとめるのが、ローマ書のパウロの言葉である。「『それが彼の義と認められた』と言う言葉は、アブラハムのためだけではなく、私たちのためにも記されている」(4:23-24)。これは後にM.ルターによって「信仰義認」の大切な教えを受けとめられていった。
人が神さまによって救われるのは、立派な行いや多額の献金をささげたからではなく、ただイエスを救い主と信じるだけでいい…そのような信仰理解に基づいて、ルターが興したのが宗教改革(プロテスタント)である。
私たちの人生には様々な困難や試練がある。しかし私たちにはアブラハム(イスラエル)への約束が示されている。そのことを深く受け止め、約束を信じて歩む者でありたい。
ただし、今現在のこととして、ひとつ付け加えねばならないことがある。聖書に記されたイスラエルへの約束(カナン定住)は、現在のイスラエル軍のガザ地区(病院、避難所)への攻撃を正当化するものではない…ということだ。むしろ今神さまは、イスラエルの人々に、パレスチナ人との共存の望んでおられると思う。恐らく、アブラハムも…。
神の約束を信じ、行く先を知らずに旅立ち、その信仰により義と認められたアブラハム…。そんなアブラハム(イスラエル)への約束の中から、悲しみや絶望ではなく、喜びと希望が生まれることを心から願いたい。