2015年4月5日(日) イースター(復活祭)
ヨハネによる福音書20:1-18
先日、前橋の街角で後ろから「おはよう!」と呼びかけられた。振り向くと近くの喫茶店のマスターが笑って立っていた。以前お店に入った時、ひょんなことから彼が同志社の先輩であることが分かり、それ以来時々コーヒーを飲みに行っては親しく話したりしていた。それで街で見かけた私に声をかけてくれたのだ。前橋に来て1年。初めて教会員以外の人から街で「おはよう」とあいさつを受けた。「ようやく少しはこの街の人間になれたのかな…」そう思うとちょっとうれしかった。
新共同訳聖書では、マタイ福音書のよみがえられたイエス・キリストの最初の言葉を「おはよう」と訳している。(以前の訳は「平安あれ」原語は「カイレーテ(喜べ)」)イースター、それはイエス・キリストが「おはよう」というあいさつと共に、新たないのちとなって甦られた、喜びの日である。
金曜日の夕方、イエスは絶望のうちに息を引き取った。従った人々は悲しみに暮れる暇もなく、急いでそのなきがらを墓に納めた。安息日が始まりかけていたからである。安息日が明けた日曜日、マリヤは墓に向かった。今度こそゆっくり、イエスの葬りの準備をしようと思ったのだ。
ところが墓に来てみるとイエスの遺体は見当たらない。「私の主が取り去られました。どこにおられるか分かりません。」彼女は何度もそう嘆いた。マリヤはイエスの「遺体」を探していた。そのなきがらすがりついて、さめざめと泣きたかった。変な言い方だが「安心して悲しみたかった」ということなのかも知れない。
するとイエスが現れて「マリヤ」と呼びかけられた。彼女の名前を呼ばれたのだ。その呼びかけの言葉を聞いてマリヤは気付く。「ラボニ(先生)」。するとイエスは言われた「わたしにすがりつくのはよしなさい」。墓の中の死せるキリストのからだにすがりついてはならない、ということか。
彼女が「ふり向いたとき」、すなわちそれまで自分の視線が向かっているのとは別の方向を向いたとき、よみがえりのイエスに気付いたと記されているのが象徴的である。ルカ福音書には「なぜ生きておられる方を死者の中に探すのか」という言葉が記される。
イエスのいのちは十字架の上で終わりはしない。イエスは今も生きていて、地の果てまであなたと共にいてくださる。「おはよう」という喜びのあいさつと共にあなたを導き、心の扉を開いて下さる。そのことを信じて、恐れを捨て去り涙をぬぐいなさい。そして私にすがりつくのはやめて、今度は自分の足で歩いていきなさい……。それが今日、イースターの朝に与えられたメッセージである。