『 心が熱くなったあのとき 』

2015年4月12日(日)
ルカによる福音書24:28-35

イエス・キリストの十字架。それはまさにイエスの弟子たちにとって絶望的な出来事だった。人間の力の限界を知り、自分たちの小さな力では打開できない状況がそこにある。「もうダメだ。なにもかも終わってしまった…」と崩れ落ちそうになってしまった弟子たち。そんな彼らに「あきらめるな。まだ終わっちゃいない。神はきっと新しい道を拓かれる…」と告げられたのが、イエスの復活の出来事である。

十字架の出来事のあと、エルサレムから11㎞ほど離れたエマオに向かう二人の弟子たち。失意のうちにその悲しみの出来事について話をしながら歩いていると、よみがえりのイエスが近づいてきて共に歩まれた。しかし、弟子たちの目はさえぎられていて、それがイエスだとは気付かなかった。悲しみで動転しているとき、大切なものが見えなくなるのはよくあることだ。

「何があったのですか」と尋ねるその人に、弟子たちは語って聞かせた。イエスと共に歩んだ宣教と出会いの日々のこと。心も身体も解放されるような福音に満たされた経験。しかしそのイエスも最後は権力者によって処刑され殺されてしまったこと。けれども不思議なことに墓にイエスの遺体が見当たらないということ…。

するとその人は「物分かりが悪く、不信仰な人々よ」と言って、それらの出来事について説き明かしを始められた。その言葉に感心して聞き入る二人の弟子たち。日が暮れエマオに着いたので宿に入り、そこで食事の席についてその人がパンを割いて彼らに渡されたその時。彼らは気付いた。共に歩いていたその人がよみがえりのイエスだということを。

するとその途端、イエスの姿が見えなくなった。呆然とした思いを残しつつ彼らはつぶやいた。「説き明かしを受けた時、我々の心は燃えていたではないか。」イエス・キリストと共に歩んだ日々を想い起して、心が熱くなる思い。その思いがその後の彼らの歩みを支えて行ったのではないか。

この場面を読むたびに想い起こす映画のワンシーンがある。黒澤明の『生きる』。病気で残された余命を、みんなが匙を投げていた公園建設に打ち込む市役所職員・渡辺の物語だ。公園が完成し、さも自分の手柄のように振る舞う市の助役や土木課長たち。公園の完成を見ずして亡くなった渡辺の葬儀の席で、その建設を目指してひたむきに生きた彼の姿を周りの人々が想い起こすシーンが描かれる。「あの時、あんなことがあった。」「そう言えば、私もこんな渡辺さんの姿を見たぞ。」思い出を振り返る中で仲間たちは気付いた。真の功労者が誰かということを。渡辺の粘り強い努力と志こそ、公園建設に不可欠なものだった。そして彼らは口々に言う。「我々も渡辺さんのようにがんばろう!」過去の思い出をふりかえり心が熱くなる… そのことが彼らの新たな決意を生み出したのだ。

「あなたは本当に生きてますか。生きようとしてますか?」それがこの映画の問いかけるテーマだ。そしてそれは聖書が私たちに問いかけるテーマでもある。イエス・キリストこそ、その生涯にわたって、しかも十字架の死に至るまで、「本当に生きた人」だった。そのイエスの物語と出会い、心が熱くなる。またイエスに従って本当に生きようとした人々の生涯に出会い、心が熱くなる。その思いを大切にしながら、私たちもまた「本当に生きる道」を求めていこう。