2015年4月19日
ルカによる福音書24:36-43
韓国では「アンニョンハセヨ」というあいさつの他に、もう少し親しい間柄のあいさつとして「パブモゴッソヨ」という言葉がある。これは「ご飯食べたか?」という意味である。昔、朝鮮が貧しい時代が長かったため、相手がちゃんと食事をしているか気遣う中から使われるようになったのだそうだ。
一緒に食事をするということは、通り一遍ではない深い交わりを生み出す。福音書の記述を読むと、イエスはこの食卓の交わりをとても大切にしていたことがうかがえる。「五千人の給食」の奇跡もそうだし、たとえ話にも宴会の話がいくつもある。貧しい人たちだけでなく、金持ちとも一緒に食事をしている。何よりも、当時のエリート(律法学者・ファリサイ派)が「罪人」として交わりから遠ざけていた人々(徴税人・遊女)と親しく食事を共にしている姿が印象的だ。
あらゆる人々と分け隔てをすることなく共に食事をされるイエス。その姿は弟子たちの記憶にしっかりと刻まれたことだろう。食事を通していのちを分かち合う。そして共に生きる。それはイエスが語られた「神の国」の姿の前触れ(予告編)でもあった。韓国・民衆神学の提唱者・安炳茂は、そんなイエスの下から生まれた初代教会は「食卓共同体」だったのではないか、と語る。当時は礼拝の中で共同の食事会が行なわれていたとも言われる。
イエス・キリストの復活を伝える物語の中でも、食事の場面がいくつも語られる。エマオに向かう道すがら、復活のイエスと出会った二人の弟子が、仲間たちのところに帰りその体験を語る。するとそこにイエスが現れて「平安があるように(エイレネー=シャローム)」と言われた。
弟子の中には「幽霊を見てるのだ」と思った者もいた。実際に体を見ても、声を聞いてもピンとこない弟子たち。本当にうれしいことが奇跡的に起こると、かえって心がこわばってしまって信じられないのはよくあることだ。
するとイエスが言われた言葉、それはこの文脈からすると意外な言葉だった。「何か食べ物があるか」イエスはそう言われたのだ。弟子たちが焼いた魚を差し出すとイエスはそれをむしゃむしゃ食べられた。その時弟子たちは「あー、イエスがほんとにここにおられる」と感じたのである。
五千人の人々と共に五つのパンを分かち合われたイエスが、徴税人レビと共に食事をされたイエスが、あらゆる人々と分け隔てなく食事を共にし共に生きられたイエスが、本当にいまここにおられる!理屈ではなく、心を貫く真実として、そのことがまっすぐに入ってきたのだ。
よみがえりのイエスのあいさつの言葉“エイレネー”を新共同訳聖書では「平安があるように」と訳した。しかし「民衆の神学」の安炳茂さんならこう訳したかも知れない。「パブモゴッソヨ?(いっしょにごはん食べよう)」
私たちがパンと盃・あらゆる食物を分かち合い、共に生きる時、よみがりのイエスもそこに共におられる。そのことを信じよう。
飯が天です
天を独りでは支えられぬように
飯はたがいに分かち合って食べるもの
飯が天です
天の星をともに見るように
飯はみんなで一緒に食べるもの
飯が天です
飯が口に入るとき
天を体に迎えます
飯が天です
ああ 飯は
みんながたがいに分かち食べるもの
金芝河(キム・ジハ 韓国の民衆詩人)