『主イエスの愛に生かされて 』 川上盾牧師

2024年9月15日(日) 恵老礼拝
エフェソ3:14-21

7月に行なわれた野外礼拝で、昼食後みんなでフォークダンスを踊った。その光景を見ながら、今月の「招きのことば」エレミヤ3:13の言葉を想い起していた。「そのときおとめは喜び祝って踊り、若者も老人も共に踊る。わたしは彼らの嘆きを喜びに変える」。

幼い子どもから90歳を超える高齢者までが共に集い、食事をし、共に踊る. . .こんな共同体は他にはなかなか無い。「神の家族」としての教会の姿がここにある!と感じた。

今日は恵老礼拝。「神の家族」として、人生の先輩方にお願いしたいことがある。それは教会に集う子どもたちの、よきモデルになって欲しいということだ。「よきモデル」というと、いつまでも元気でかくしゃくとしていて. . .そんな立派な姿を想像されるかも知れない。しかしお願いしたいのはそうではなく、むしろ逆のことだ。

歳と共に元気がなくなり、弱りを見せ、失敗が多くなる. . .そんなご自身の“マイナス”と思える要因を、否定せず拒否せずむしろ受け入れて生きる姿、『老いる自分をゆるしてあげる』(上大岡トメ著/幻冬舎)、そんな姿をぜひ見せて欲しいと思うのだ。

老いと共に弱りを見せていく自分自身を受け入れる. . .これは自分の力に頼って生きてきた人にはなかなか難しいことだ。可能にするには自分を頼る心を離れ、自分以外の存在(=神さま)を頼る、そんな心が必要だ。そう、それは極めて信仰的な課題なのである。

今日の聖書はエフェソの教会の信徒に宛てたパウロの言葉。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超える神の愛を知りなさい」(3:18-19)。人知を超えた神の愛、その愛に生かされて今あることができる!それを信じることは、ある意味「自分を捨てること」だ。

「自分を捨てる」. . .そんなこと本当にできるのだろうか。かく言う私自身も、結構自分に頼って生きるタイプであると自認する。それは私自身にとっても難問である。しかし「そんな人生がある」と知っているのと、まったく知らないのとでは、大きな違いがあるのではないか。自分を手放し、すべてを神に委ねて、主イエス、の愛に生かされている姿を見せること、それは子どもたちや若者のよきモデルとなると思う。

以前、地区教師会で、教会にとって高齢者の存在とは?といった話題になった時、ある牧師が「信仰保障だ」と言われた。弱っても教会に来れなくても、それでもつながっている. . .信仰によってそれが可能になる. . .「信仰を持って生きれば、動けなくなってもつながっている。ひとりじゃない!」そんな信仰を保証してくれる存在というのである。

そんな「主イエス、の愛に生かされる信仰」を目指したい。それは「何かをする」ということではないのかも知れない。何もできないけど、それでも生かして下さるキリストの愛の広さ・長さ・高さ・深さにすべてを委ねて歩むことである。