『 その日その時はただ神が知る 』 川上盾牧師

2024年9月29日(日)
ダニエル12:1-4, Ⅱコリント5:1-10

今日の旧約・ダニエル12章は、旧約聖書で唯一といっていい「個人の復活」が語られる場所である。ちょうど40年前、神学部の大学院生として修士論文を執筆していた時に、この箇所も取り上げた。(論文のタイトルは「旧約聖書神学における復活の問題」)

旧約の古い資料では、実は死後の世界への関心はあまり深くない。「アブラハムは満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(創25:8)それで十分だ...そんな死生観がそこにはあった。

ところが歴史的な状況によって事情が変わる。個人の復活の信仰が強く求められる時代が来たのだ。それはイスラエルを支配する諸外国からの弾圧という状況であった。そのような状況が反映されているのがダニエル書である。

ダニエル書の舞台はバビロン捕囚期の南王国ユダ(B.C.6C.)である。しかし実際に執筆されたのは、シリアのセレウコス王朝によってユダヤが支配された時代(B.C.2C.)とされる。この時代、厳しい宗教弾圧が加えられた。ギリシャの神々の像が建設され、ユダヤ人にも参拝が強要された。(日本にも戦時中、朝鮮のキリスト者に神社参拝を強要した反省すべき歴史がある。)

「偶像崇拝の禁止」という信仰的な立場でこの命令を拒んだ人がいた。これらの人は捕らえられ処刑された。いわば信仰を貫いて受難した「苦難の義人」である。「その人たちが殺されて、それで終わりでは報われない!」そのような思いから、復活信仰が生まれていった。

「苦難の義人」ということで言えば、イエス・キリストの十字架もまた同じ出来事である。ダニエル書の時代から受け継がれた信仰が、イエスの復活の物語にも大きく関係をしていく。

この復活信仰が、初代教会に時代には、その対象がさらに広がっていった。そのことを示唆するのが新約の箇所(Ⅱコリント5章)である。ここでパウロが語る「神の住まい・永遠の命」とは、「苦難の義人たち」だけの復活ではなく、イエス・キリストを信じる者すべてに約束されたものとなっている。

パウロはこの復活の命への明確なヴィジョンや憧れがあった。だから復活について、かなり詳細な記述を残している(Ⅰコリント15章)。それが人々に希望と勇気を与えたことであろう。しかし私は、死後の世界や永遠の命について、詳細に語りすぎることに、ある種の「危うさ」を感じてしまう。

「死後さばきにあう」そんな言葉をもって人心をコントロールし、行動を規制する. . .いわゆる「カルト宗教」の手法につながりかねないからである。誰も知らないはずの死後の世界を「私は知っている!」と断言する、そんな人の言説に縛られる危険がそこにはつきまとう。

むしろ、死後の世界のこと、「それは私たち人間には分からない」という立ち位置がふさわしいのではないか。「その日その時はただ神が知る」と。

「死後のことが明確に分かっていないと心配だ」という思いは、映画の結末を先に知りたい、という思いと同じである。結末はエンドロールが出るまで分からない。でも、だから途中が面白いのではないか。「死んだ後永遠の命を得るために今このことをしよう」、という生き方は、退職金や年金を得るために今働くという姿に等しい。私たちが働くのは、まずは今日の給料のため、もっと言えば今この働きによって喜んでくれる人の笑顔に出会うためなのではないだろうか。

イエス・キリストが教えて下さったのは、死後の備えのために今を生きる、という生き方ではなく、今この時の人生を感謝と喜びをもって豊かに生きること、隣人と共に愛をもって生きることだと思うのだ。そして死後の世界のこと、それについては「その日その時はただ神が知る」そう受けとめて、
神にすべてを委ねる. . .そんな信仰を求めたいと思う。