2025年2月9日(日)
イザヤ8:8-12, マタイ13:10-17
私の礼拝メッセージへの感想として「分かりやすいです」と言って下さる方がいる。とてもうれしいご意見である。井上ひさしではないが「むつかしいことをやさしく」語りたいと努力している。とは言え、聖書のメッセージは何も予備知識を持たない人に伝えるのは至難の業である。そんな時に有効なのがたとえ話だ。
イエスもたとえ話を数多く語られた。(全部で60余り、物語形式のものが40ほど) イエスの元に集まった「無学な庶民」に対し、律法学者たちのように「上から目線」ではなく、分かりやすいようにと譬えで語られたのだ。
譬えで語るイエスの姿に、庶民に寄り添って神の国の福音を伝えようとする思いを感じてきた。ところが今日の新約の箇所にはそんなイエスのイメージを損なうようなことが書かれている。弟子たちが「なぜあの人たち(庶民)には譬えで話されるのですか?」と問うたのに対し、返答として記されたのが今日のイエスの発言だ。
「あなたがた(弟子)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(庶民)には許されていないからだ」とイエスは言われる。何となく、「庶民は理解する力がないので、譬えで分かりやすく話してやるのだ…」といった「上から」の発言にも思えてしまう。
続く言葉はさらに辛辣だ。「(彼らは)見ても見ず、聞いても聞かず、理解できない」と語り、イザヤの「彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない」という言葉を引用されているのだ。
もとのイザヤの言葉もまた不思議な言葉である。神の言葉を「預かり語る」預言者としての召命を受けたイザヤに対して、神は言われる。「この民の心を頑なにし、耳を鈍く目を暗くせよ。 悔い改めて癒されることのないために」。私たちが普通「救い」と考えるのとは真逆のことが語られている。これはどういうことなのだろうか?
ここには預言者が引き受けなければならない、ある種の宿命的な「重さ」が表されていると思う。預言者は、悩みには慰めを、絶望には希望を語る。しかしそれだけではなく、傲慢を戒め、自己中心的なあり方を厳しく咎める言葉も語る。それは万人が喜んで聞ける言葉ではない。それでも、示された神の真理を語れ、と主は命じられるのだ。
分かりやすい話が、必ずしも受け入れられるかはわからない。イエスのたとえ話の中にも、内容は分かりやすいが、実行するのは難しいと感じる教えもある。例えば100匹の羊の譬え。私たちに感動を与える羊飼いの姿だが、自分が同じようにできるかというと、疑問符が付く。
今日の聖書のメッセージをどう聞けばよいか。イエスに倣って譬えで語ってみよう。
【聖書の教えは「甘いケーキ」とは限らない。それは時に「苦い野菜」「小骨の多い小魚」のこともある。誰もが心地よく聞けるとは限らない教えの言葉…。それらを避けずに、感謝していただくことによって、私たちの魂は健康に養われる…そう思って聖書を読むことが大切なのだ。】