『 羊飼いのはたらき 』

2015年6月21日(日)
ルカによる福音書15:1-10

プロテスタント教会では、礼拝を司り信徒の魂の配慮をする役割の人のことを「牧師」と呼ぶ。つまりそれは「羊飼い」である。カトリック教会の「神父」には神の代理というニュアンスがあるのに対して、プロテスタントではあくまで一人の信徒である。

旧約聖書では、神とイスラエルの関係が羊飼いと羊の群れにしばしばたとえられる。「主は羊飼い、私には何も欠けることがない。」(詩23編)羊は視力が優れておらず、気の弱い生き物で、常に群れている。そして先導者に従って行動する性質がある。ベドウィン(遊牧民)をルーツに持つイスラエル民族にとって、羊飼いである神の存在は、とても身近にイメージされたことであろう。

一方、エゼキエル書では捕囚期のイスラエルの指導者たちに向けて、「羊飼いの働きを放棄した」と厳しい糾弾の言葉が語られる。捕囚の混乱期にあって、弱った人を守らず、病人や傷ついた者をいたわらず、ひたすら自己保身に走る姿は「羊飼い失格だ!」というのである。教会の牧師にとってはドキッとさせられる言葉である。

新約の箇所は、イエス・キリストの有名な言葉である。それは「見失った一匹の羊」を見つけるため、99匹を野において探しに出かける羊飼いのたとえである。イスラエルの失われた人々(病人、障害者、徴税人、遊女、罪人…)と親しく交わる姿を律法学者たちから咎められる中で、このたとえ話は語られた。

並みの羊飼いならば、群れを守るために一匹の羊を見捨てるかも知れない。群れについてこれない弱った羊の歩みに合わせていたのでは、群れ全体が危険にさらされる…そんな判断もあるだろう。私たちの周囲の現実の中にも、99人の利益のためにひとりが切り捨てられることがしばしばある(沖縄、原発)。

しかしイエスの行動基準は違う。イエスは弱く傷ついた羊のところをまっすぐに訪れ、まずこれを守る。そして小さなひとりを大切にすることを通して、群れ全体を救うのである。それは理想の羊飼いの姿である。

私たちはしばしば、その理想の羊飼いによって探してもらえる「一匹の羊」に自分を重ねて考える。しかし99匹の立場にも思いを寄せたい。羊飼いが探しに行っている間、99匹が雲散霧消することなく待っていてくれる…そのような信頼の中で、羊飼いはその働きを充分に果たすことができるのである。

さらにイエスは言われる。「私にはこの囲いに入っていない他の羊もいる。それらの人をも導かねばならない。」イエスの働きは「囲いの内側」に限らない。もっと大きな広がりを持つということだ。そしてこの羊飼いは、最後には自らが「犠牲の小羊」となられて、罪を贖って下さったのだ。

教会の牧師として自問自答してみる。「お前はどんな羊飼いなのか?」とてもイエスと同じ働きなどできない、破れや過ちの多い存在である。しかし出来る限り「理想の羊飼い」であるイエスに学び、倣い、その歩みのはるか後方からでも従う者でありたい。少なくてもエゼキエルに叱責されるような牧者ではないようにしたい。そして、「羊飼いのはたらき」というものは、それ一つが独立して存在しているものではなくて、羊との関わり・信頼の中にこそ生み出されるものであることを、忘れぬようにしたい。