2025年5月4日(日
列王記上17:17-24, マタイ12:38-42
インターネットの技術は、多くの便利さをもたらしたが、一方ではネットを使った誹謗・中傷・差別といった弊害ももたらした。フェイクニュースが跋扈する中、証拠(エビデンス)に基いた価値判断を大切にしなければならない時代を私たちは生きている。
新約は、イエスの元にしるし=エビデンスを求めに来た律法学者やファリサイ派のことが記される。彼らは真摯な思いでイエスにしるしを求めたのだろうか?そうではなく、イエスを潰そうと思って「お前がメシヤなら、証拠を見せてみろ!」と迫って来たのではないだろうか。
イエスはどう答えられたか?「今の時代はしるしを求めるが、ヨナのしるし以外は与えられない」と言われた。「ヨナのしるし」、それはヨナの預言を聞いて悔い改めたニネベの人たちの姿を連想させる。「証拠を見せよ!」と上からの物言いで迫る人にではなく、悔い改める心を持つ人にしか、イエスがメシアである「しるし」は分からない. . .そういうことではないだろうか。
ではイエスはまったくしるしを見せなかった(見せる力がなかった)のだろうか?しるしなら何度も示されている。多くの病人の癒し、五千人の人との共食などである。旧約はエリヤが不思議なわざ(尽きない粉・油、やもめの息子のよみがえり)を行ない、それを見たやもめが「この人は神の人だ」と信じたエピソードである。そのような不思議なわざならば、イエスも何度も行なっていた。
しかしイエスはその力を「どうだ、まいったか!」と誇示されない。「しるし(証拠)を示してみろ!」という律法学者たちの挑発には乗らず、まことの信仰とはしるしを求めないものだということを示されるのだ。
ヨハネ福音書では、イエスの復活の知らせに対して「私は手の釘の穴を見るまで信じない」と言ったトマスのもとにイエスが現れ、釘の穴とわき腹の傷を示し、「見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いである」と言われた記事がある。「しるしを求める信仰」に足を取られていたトマスに、イエスは「しるしを求めない信仰」を示された。
映画『コンタクト』の中の印象的な場面。宇宙科学者の主人公エリーは「私は証拠のあるものしか信じない。もし神がいるなら、どうして証拠を残さないの?」と言うのに対し、神学者・パーマーが問いかける。「君は亡くなったお父さんを愛していた?」「もちろんよ。」「じゃあ、その証拠は?」エリーは絶句する。娘が父を愛する気持ちは証拠をあげて証明するものではないのである。
私たちも「しるしを求める信仰」を抱いてしまうことがある。自分の願い通りの展開・自分の納得する利益を得たい. . .そのような思いがしるしを求めさせるのである。しかし、まことの信仰とは、たとえ思い通りの道が得られなくても、それでも神を信じるという世界でもあるのだ。
証拠に基づいて判断することがますます大切になる時代。しかし一方では、しるしを求めない・しるしを必要としない信仰がある、ということを大切に受けとめたい。