『 隔ての垣根を越えて 』

2015年6月28日(日)
使徒言行録11:1-18

アメリカのサウスカロライナ州で、白人の青年が黒人教会で銃を乱射し死亡させるという痛ましい事件があった。ヘイトクライム(憎悪犯罪)と呼ばれる凶行であるが、これは私たちにとって「海の向こうの出来事」とは言い切れない。在日外国人(特に韓国・朝鮮・中国人)に対するヘイトスピーチの現実があるからだ。

人種差別は本当に胸の痛む行為であるが、洋の東西を問わず、昔も今も人間の社会には生じてしまう現実だ。それは人間の「原罪」のひとつと言えるのかも知れない。

どうしてそのような心情を人間は抱いてしまうのだろう?自分とは「違う」と感じる人を受け入れようとしない態度や振る舞い。それは相手への攻撃心や憎悪が先にあるのではなく、むしろ相手を恐れる心と、それと裏返しの自分に自信を持てない心とが合わさって生まれるものではないか。自分に揺るぎのない自信を持っている人は、人と自分を比較する必要はない。それ故に相手を恐れることもない。自分の弱さが「隔ての垣根」を作る源泉ではないだろうか。

聖書の世界も残念ながら「隔ての垣根」と無縁ではない。イスラエル民族が持っていた「神に選ばれた民」というアイデンティティ。それは歴史の苦難の中で耐え忍ぶ力ともなったが、一方で「異邦人」との間に隔ての垣根を設ける源ともなった。

「差別」の現実を生み出す要因の一つに、食べ物の禁忌がある。自分たちがタブーとしているものを平然と食べる人を見て、「汚れ」の意識を持ってしまうのであろう。今日の箇所にはそんな感覚が前提としてある。

ペトロが見た幻。ふろしきの中にいろんな動物の肉が入っていた。その中にはユダヤ人がタブーとしていたもの(例えば豚肉、イカ・タコ)も入っていたのだろう。「汚れた肉は食べられません」と言うペトロに、「神が清めたものを汚れていると言ってはならない」という神の言葉が響く。

これは「異邦人のクリスチャンを、そのまま受け入れなさい」というメッセージである。その背景には「異邦人はまず割礼を受けてユダヤ人になってから受け入れるべきである」というユダヤ人保守派の考えがあった。「隔ての垣根」を温存したままの宣教を主張する人々に対して、それを乗り越えて新しい地平を目指しなさいと神は言われるのだ。なぜならイエス・キリストの宣教は、まさにその垣根を越えて人と出会うものだったからだ。

ヘイトクライムの現実に対し、私たちは「そんなことはあってはならない。自分は決してしない。」と思うだろう。しかしそんな私たちの心の中にも「隔ての垣根」を設ける心・弱さは存在している。イエスの教えに導かれながら、その弱さを越えて生きることが大切だ。

「隔ての垣根を越えて、共に生きる」と言っても、すぐに和気藹々・仲良しにならねばならない、ということでなくてもいいと思う。どうしても苦手な人は存在する。すぐに好きになれなくても仕方ない。でもその相手の存在を「認めること」。それが共に生きるための、ひとつの道のりではないだろうか。