2016年8月28日(日)
エレミヤ28:5-14,ヨハネ福音書8:42-47
礼拝堂ベンチ裏のスベリ材の張り替えのため、両面テープを同じ長さに切る作業をした。最初目分量でやっていたが、たった数㎝の長さなのに短かったり長すぎて余ったりした。途中からわりばしを同じ長さに切り「ものさし」として用いると、ちょうどよい長さに揃えられた。
信仰生活も同じだと思った。私たちは自分の感覚、自分の判断によって行動し、取捨選択をしている。しかし、私たちの感覚や判断には誤差があり、間違えてしまうことがある。けれども「ものさし」を持つことによってその間違いを修正し、ふさわしく歩むことができる… そんなことを考えた。
私たちは週に一度礼拝をささげている。礼拝で祈り、賛美をささげる… それも大切な営みだが、もうひとつ大切なのが聖書を読むという行為だ。聖書の言葉を「神の言葉」として受けとめ、その「ものさし」に従って自分自身の歩みを見つめたり修正したりして、神の前にちょうどよい歩みを求める ― そこに私たちが礼拝をささげている意味があると言えよう。
「聖書は神の言葉」といっても、直接神の言葉を録音したり書きとめたりしたわけではない。ひとりひとりの著者は人間であり、「私は神の声をこのように聞きました」という証言集と言えよう。しかし、それを読む私たちが「これは心に響くからよい言葉」「これは響かないからダメな言葉」と区分けしてしまうのはいかがなものかと思う。それでは結局、「自分の聞きたい言葉を聞いている」だけであって、「神の言葉を聞いている」とは言えないのではないか。
かつて礼拝に来られた方から帰り際に「礼拝に慰めの言葉を聞きたくて来てるのに、今日は怒られてばかりでした。」と言われたことがある。慰めを語り切れなかった自分の未熟さを申し訳なく思う。その自分の至らなさを棚に上げてそれでもなお言わせてもらうならば、聖書には慰めの言葉と共に、厳しい問いかけの言葉もある。それを、「私はやさしい慰めの言葉だけを聞きたいのであって、厳しい言葉は聞きたくない」と言われるなら、それは神の言葉の半分しか聞いてないことになるのではないか。
預言者エレミヤはバビロン捕囚の苦しみの中で、厳しい言葉を語った。「この捕囚の苦しみは、イスラエルの罪・過ちに対する懲らしめである。だから安易な希望を捨ててこの苦難を甘んじて受け、この試練を耐えて信仰を深めよ」と。周囲にはもっとウケのよい、聞いていて心地よくなる言葉を語る人(ハナンヤ)もいた中で、たとえウケなくても、少々聞く人の心を辛くすることであっても、それでも厳しさを捨てずに語った。それを聖書は「神の言葉」と受けとめる。
「神に属するものは神の言葉を聞く」とイエスは言われる。「神に属する者」とは誰か?品行方正で従順で間違いを犯さない人か?そうではなく、「自分の感覚・判断では間違ってしまう」ということを知っている人のこと、そして、だからこそ神の言葉を「ものさし」として生きることを求める人のことだと思うのだ。
「神の言葉を聞く」ということ。それは私たちにとって心地よい、慰め深い体験ばかりではないかも知れない。時にハッとさせられ、時にドキッとさせられる、自分自身の至らなさに身の縮む思いをする…そんなこともあるかも知れない。しかしそれらのことも含めて、聖書の言葉は私たちを養い、育ててくれる…そう信じて、神の言葉を聞きながら歩む者となろう。