2025年5月18日(日)
サムエル下1:17-27, ヨハネ14:1-11
人間は「死」を知っている。自然界の生き物の中で人間だけが葬儀を営み、近しい人の死を嘆き・悲しみをもって受けとめる。それが人間の独自性を深めて来た。
旧約はダビデが朋友・ヨナタンの死を嘆く場面である。ダビデとヨナタンとの愛の結びつきは「友情」を超えたものを思わせる。しかし父・サウルのダビデへの確執故に、意に反して敵対関係となってしまい、そのさ中にペリシテ人との戦闘で戦死してしまう。竪琴を弾きながらヨナタンを想い歌う哀歌は、読む者の心を打つ。このような「死を悼み、不安や恐れを感じる心」は、人間が有史以来抱き続けてきたものであろう。
この死への恐れ・不安というものに対し、キリスト教が生まれ、新約聖書が記される時代を迎えて、宗教的な状況は大きく変わる。「イエス・キリストは十字架の死よりよみがえった!」、それがキリスト教信仰の始まりだからである。
今日の新約はそのイエスが、生前弟子たちに語られた言葉である。「あなたがたのための場所を用意しに行くのだから、心を騒がせるな」とイエスは言われる。これをどう受けとめればいいのか。
「死後の世界・天国にあなたための特別室を予約してあげるよ」. . .そんな風に受けとめるのだろうか。確かにそう読まれてきた言葉であろう。でも本心で、心からそう受けとめられてきただろうか。
葬儀などで遺族の人が「お母さん、いままでありがとう。いつかそっちに行くから、それまで待っててね」と言いながら、実際の出棺の場面になると涙を止めることができない. . .そんな様子を見かける。本心では「もう会えないかも知れない」と思ってる. . .だから悲しいのではないか。死んだ後の世界に「あなたのための場所がある」と言われても、本当のところは分からない. . .だから涙は残り不安は消えないのではないか。
「少し違うとらえ方ができるのかも知れない. . .」、そんなことを思ったのは、最近ひとつの映画を見たからだ。
『ハッピー・エンド』。前橋の総社町で終末医療の緩和ケアをしておられる萬田緑平医師のドキュメンタリーである。萬田さんの方針は「無理な延命治療はしない」。点滴の管とモニターの機械につながれて無理やり生きさせるのではなく、最期の時に至るまでその人の納得する生き方を目指す、ということだ。
病院ではなく自宅で、酒・タバコも、ギャンブルもOK。病気の完治ではなく、治らない病気と折り合いをつけて「いかに生きるか・いかに死ぬか」を目指す。そうやって残された日々をきちんと見つめ、その人だけの最期をしっかり迎えた時、「死は敗北ではなくハッピー・エンドだ」と萬田さんは言われる。
ある男性は病院から自宅に戻り、酸素吸入をしながら焼酎を飲み、妻に運転してもらって競艇に出かける。萬田さんから「奥さんにありがとうは?」と言われても、「そんなの言わねえよ」。そんな亭主関白の“頑固おやじ”が、いよいよ最期を迎えるに及んで、本当に照れ臭そうに妻に「ありがとう」と言った場面に、心が震えた。
この場面を見ながら、「あなたのための場所」とは死後の世界というよりはむしろ、いまこの時に自分が本当にいるべき場所に、いるべき人と共に、感謝の思いを抱いていられる. . .そういうことではないかと思ったのだ。
「道・真理・命」であるイエスを信じ、お金では手に入れることのできない幸せを見い出し、イエスが教えられた最も大切なもの、すなわち「愛」を抱いて生きる。そのような「イエスの道」に生きる喜びを感じられるあり方・その場所・そこでの人との交わり. . .そこに「あなたのための場所」があるのだ。